第146話 吊り橋の戦い⑥
旭美幌は愕然としていた。光景が信じられなかった。
目の前で和田が敵の少女――どこかで見たことある――を取り逃がした。そして敵への射撃を開始した――それまではよかった。だがどうして想像できたであろう、突然、長安口ダムが爆発するとは!
そして目の前に降ってくるダムの水門――だったもの。爆発の際、水圧でここまで吹き飛ばされてきたのである。
「ひえっ!」
旭さんは素っ頓狂な悲鳴を上げるのがやっとであった。
「どういうことです!」金城さんは言った「ダムは攻撃しないはずでは!?」
「あれはうちの弾ではありませんよ!」小隊長が答えていた。明らかに動揺していた「弾なら、飛んでくるのが見えたはずです」
むろん高速で飛んでくる弾が見えるはずはない。そんなことわかっていたが、友軍がやったとは思いたくなかったのである。
「これはまずいことになりましたね‥‥‥」
まだ股間を押さえている和田を抱き起しつつ、安西は言った。
「すぐに後方へ打電が必要です。洪水になります、これは」
***
みどりさんと私が互いに生きていることを確認した時、次に思い起こしたのが、主上のことである。
本田氏の指示ですぐに車を移動させたりして崖の間際に防衛ラインを作り始めている仲間を尻目に、私と彼女は崖下を見る。
囂々と音を立てる濁流が、すべてを飲み込んでいた。
人が流れていくのが見える。ああ、と声をあげるが、しかしそれは主上でも、薫御前でもなかった。救出のため降りていた兵士であった。二人はというと――いた、車ごとやや下流に流されたが、天佑神助、やはり岩に引っかかっていた。
二人は車の上で動かなかった。生きているのかどうかも定かではない。これは、と思っていると、なんと主上がもぞもぞと身を動かしたのである。
目を覚ましたらしい。はっと顔を上げるとあたりを見回す。そして今自分がいったいどういう状況にいるのか、全く理解できないとばかりに、左右を見まわして、そしておびえたような表情をした。
そして恐怖にひきつった顔で崖の上を見上げる。
そのとき、私たちと目が合った。
濁流の中だった。大雨の中だった。筒音と爆音の響く中だった。だがその声ははっきりと聞こえた。
「姉上――!」
それは高御座から我々に語り掛けた声ではなかった。初めてあった日、ワンピースを着て、笑顔を浮かべていたときの声。みどりさんの弟の声であった。
みどりさんは目を見開いた。そして呟くように言った。
「助けに行かなくてはなりません」
そして車の荷台からロープを取り出してくる。背後では激戦が続いているが、それはそれとばかりに、コンクリート製の主塔と自分にロープを巻き付けた。
「ま、まさかと思うが……」
「今から降ります」
「危険すぎる! あの濁流では……」
「弟があそこにいるのです! 助けを求めている! だから行かないと」
「一緒に逃げると言ったじゃないか」
私がそう言った時だった。彼女はわたしにずいっと顔を寄せた。あっという間のことだった。彼女は私の唇に唇を重ねていた。
それは数秒もなかったであろう。しかしときに、永遠と数秒を区別することは、人間には難しい。どれくらいたったか、彼女は唇を離した。
「そうです、みんな一緒に逃げるんです。死にに行くのではありません」
彼女はそう言って橋――だったもの――のたもとに立つ。
「では後で会いましょう」
彼女はそう言って流れの中に身を躍らせた。
彼女は滝のような流れの中を巧みに泳いでいく。もう少しで主上のところに届きそうだというところであった。
「危ない!」
後ろで声がした。次の瞬間、私はぬかるんだ地面の上に吹き飛ばされていた。
――砲弾が至近距離で炸裂したのだ。視界が赤い。痛みはさほど感じなかった。手足があること、そして臓物が飛び出していないことを確認しながら、ゆっくり起き上がる。
唖然とした。そして絶望した。
みどりさんのロープを結び付けていた主塔の柱が、吹き飛んでしまっていたのである。
こんなことってあるだろうか、みどりさんはどうした、助けなくては――
私はふらふらと崖の方に向かう。後ろの喧騒などどうでもよかった。とにかくみどりさんを助けなくては――崖を降りて――ええとそのあとは――
そこで私の記憶はいったん途切れている。
ダムを2回目の爆発が襲ったのであった。水の塊が、まさしく巨大な鉄砲水として両岸を襲う。崖のすぐそばにいた者は押し流されていく。
水はあらゆるものを洗い流していく。夢も、希望も、絶望も。
そんな人の営みも、人の心も、十把一絡げにして、濁流は、丹生谷の谷あいを駆け抜けていったのである。




