第136話 雨は降る降る
丹生谷攻撃の本隊――甲部隊は日野谷でいったん止まっていた。発電所を占領した後、さらにダムまで進出するのが当初の作戦である。しかし、その前に一度、敵に降伏のチャンスを与える。
「いまさら彼らが降伏するとは思えませんがね」
安西は言った。それには一同同感であるが、しかし、戦わずに済むのであればそれもよいと思う。
とくに旭美幌はそうであった。
すでに靴下もぐちょぐちょに濡れていた。今すぐに帰りたかった。だが撤退命令など出そうにもない。何の役にも立たない自分が、こんなところにいてどうするのか、そう自問自答し続ける。
(雨は降る降る人馬は濡れる‥‥‥)
旭美幌はひとりそう呟く。
ふとまわりが騒がしくなった。
「金城さん、どうしたんですか」
旭さんは尋ねた。
「どうやら向こうから車が来ているようです」
「えっ! 特使ですか」
「降伏の交渉ならいいんですが」
旭さんは身を乗り出した。フロントガラスは雨に打たれている。もともとフロントガラスの面積も小さい82式指揮通信車である。ほとんど何も見えない。
だがその向こうで、光るものが見える。車のライトである
やがて車は、装甲車の前まで来て停車する。普通のコンパクトカーだった。
自衛官がライフルを片手に取り囲む。中から両手を上げて出てきたのは、白衣を着た女性であった。見ていた者はぎょっとした。その袖口に、血がついていたのである。
「私は丹生谷診療所所長、上野原皐月です」その白衣の女は言った「怪我人がいます」
すると今度は助手席のドアが開いた。片手に傘、もう片手で杖を突いた少女が降りてきた。
それを見ていた抜刀隊の面々は思わず声を上げた。
それは卜部りんであったのである。
「今すぐ保護してください。彼女らは味方です」
そういって安西は安堵した。それは金城さんらも同じである。
「無事で何よりです。しかしあの程度の怪我で大げさですね」
自衛官の一人が卜部りんに肩を貸そうと傍に寄った。しかし彼女はそれを拒否した。
「怪我人はボクじゃないよ」
そう言って後部座席を指さした。
後部座席を覗き込んだ自衛官は、すぐ叫んだ「担架を!」
そこにいたのは、二人の若い女性である。一人は巫女服――そしてその腹部を赤く濡らし、喘ぐような呼吸をしている。もう一人は彼女の手を握っていた。
「がんばるのです、もう大丈夫、助かるのです」
やがて担架がやってくる。斎部美嘉はそれに乗せられて、運ばれていく。上野原先生もそれに付き従っている。
その光景を見ながら、卜部りんは、装甲車にもたれかかっていた。
扉が開き、安西が顔を出した。傘を持つ。
「彼女は確か……」
「丹生谷の高官だよ。長安口ダムのところで刺されていた」
「刺されていた、って……いったい誰がです」
「意識が戻らないと聞けないんじゃないのかな」りんは言った「先生曰くあの失血量じゃ助かるかどうか五分五分だって。なんで敵を助けるんだって思ったけど、放っておけなかったみたい」
「なるほどね。それで、なんで、丹生谷診療所の女医さんが、あなたを連れてここへ?」
「聞いていなかったのかな? 彼女も、ボクとおなじ組織の人間だよ」
なるほど、宮内省が送り込んでいたスパイというわけか。そして……
「彼女は? 見たことない顔ですが」
安西は車の隣に佇んで、斎部美嘉が運ばれて行きし方を心配そうに眺める女性を指さした。
「ああ、彼女はね……」
そう言った時だった。美嘉の搬送の引継ぎを終わらせた、上野原先生が戻ってきた。
「はじめまして」上野原先生はそう言って安西に手を出した。「丹生谷診療所――いえ、宮内省病院内科の上野原皐月と申します」
「陸上自衛隊鹿島教導隊、安西一等陸尉です」安西は答えた。
「安西さん、出会って早々で申し訳ないのですが、司令部に話はできますか?」
「ええ、それは可能ですが……」
「すぐにお伝えしないといけないことがあるんです」
「ではまず中に。旅団長がいらっしゃいますから」
「その前に」上野原先生は車の方を指さした「彼女を連れてきてください」
すぐに小泉榛名が連れてこられる。
「上野原先生」小泉さんは震える声で言った「こ、ここからどうなるのですか。さっくんには会えるんですか。いえ、そもそも、なんで自衛隊の人と仲良くしているのでありますか……」
「ここでは周囲の動揺を誘います。中で話しましょう。いいですか?」
安西ははじめ渋い顔をしたが、しかし、首を縦に振らざるを得なかった。
指揮通信車の中に入る。中はすでに定員オーバー気味である。
「おいおい、それは一体だれだ……」
奈良井一等陸佐は眉をひそめた。
「狭いのです、これはいったい……」
小泉さんがそう言った時である。がちゃりと音がした。手首に冷たいものが触れる。
おそるおそる手首を見る。
手錠がかけられていた。そしてそれを行なったのは、卜部りんである。
「い、いったいどういうことなのですか!」
小泉さんは叫んだ。周囲も唖然としている。しかし上野原先生も卜部りんも顔色一つ変えない。
「小泉さん」上野原先生は小泉さんを見据えて言った「これは一種の取引です」
「取引……?」
「そうです。取引に応じるなら、あなたも、そして弟さんの罪も軽くなるように取り計らうことが出来ます」
「ちょっと、何を勝手に……」
金城さんが割って入ろうとするが、卜部りんが手を伸ばして制止した。
「小泉さん、クーデターとやらについて、知っていることをすべて話してください」
「クーデターだって!」
驚きに満ちた声が上がる。旭さんや金城さんは聞き間違えかと目を丸くし、安西も開いた口がふさがらない。奈良井連隊長はいまにも泡を吹きそうである。和田も驚いたような顔をしていたが、しかし、内心は気が気でない。
「クーデターって、なんのことですか」
奈良井が言う。
「東京で丹生谷に呼応して蜂起する部隊がいるようです。詳しい話はまだ聞き出せていませんが……どうやらこの人か、この人の弟が詳しいらしいのです」
上野原先生はそう言って、また小泉さんに向き直った。
「丹生谷に義理立てしたい気持ちもあるかもしれません。しかしあなたは巻き込まれたのです。いまここで、我々に協力いただけるのなら、罪は免れます。しかし、あなたが話さないとなると、それは丹生谷に協力したことになり、罪は免れません。それは弟さんも同じです。どうしますか」
「し、しかしなのです、さっくんがどこにいるかなんて……」
「すでに手配済みだよ」卜部りんが言った「徳島市内にいるんだよね。そんなの特定は簡単だよ。すぐにお姉さんの前に連れてきてあげるから」
小泉さんは背中を冷たいものが伝うのが分かった。いずれにせよ、もはや選択肢はない。
ごめんなさい、水澤さん、浅葱さん、それしかないのであります。彼女は心の中でそう呟いて、首を垂れることしかできなかったのである。




