第115話 西進
尾州、尾州と車は進む。
国道を甲州市まで抜けたあたりで、当初の予定の塩尻経由は辞めることになった。中央線で逃げたことが判明している以上山梨長野方面は警戒されているとみるべきであり、第一、西へ上るには距離が長すぎる。
結果として甲府の南側を迂回した後富士川に沿って南下した。静岡に抜けるとそこからできるだけ警戒されていそうな東海道――すなわち国道1号線そのものを避けつつ西へ向かった。そんな上手い道があるのかと思うが、国道を一切使わなくても東京大阪間の異動は可能なのである。これは国道を使わないチャレンジをする通称「非国民」というマニアたちが検証してくれている方法で、国道1号線に並走する無数の道を用いるのだ。これを参考に西へと向かう。
案外警戒はされていないようで、静岡、浜松、豊橋と順に通過して、日が傾くころには名古屋を過ぎていた。
「さて、どこまで行こうか」松代さんは助手席で言う。途中で千曲さんと運転を代わっていたのだ。
「そろそろ私もしんどいですね。浜松から運転しっぱなしです」千曲さんが言った。
私が後ろの席から地図を見ながら言った。
「問題は鈴鹿より先でしょう。できるだけ東海道に近いところを通るか、それとも」
「それとも?」
「紀伊半島の内陸部を通過するか、すなわち伊賀から奈良に抜ける道です。これなら人通りの多いところを回避できます」
「なるほど一理あります」みどりさんは頷いた「このまま東海道を通っては京都にたどり着いてしまいます。京都は陰陽寮の本拠地、そんなところに足を踏み入れれば、私たちはすぐ補足されてしまいます」
「それ、奈良は大丈夫なの? お寺とかいっぱいあるけど」
「京都ほどではないです。それに、南都勢力は東京政府を快くは思っていないはず」
「しかし天台座主は興福寺を訪問していますよ」私は言った。「京都とも和解しています。京都の勢力が奈良にも入っているのでは」
「でも京都よりはマシでしょう」
「でも今日そこまで行くことはできないわ」千曲さんは言った「いいところで道の駅でも見つければそこで休むわよ」
「ええ、そうしてください」私は言った「ありがとうございます」
千曲さんは答えなかった。代わりに眠気止めのガムをドリンクホルダーからつまみ上げると、それを口に放り込んだのだった。
***
車は三重県に入っていた。
鈴鹿を過ぎたあたりで道を南西に取り、紀伊半島の中へと分け入っていく。宇陀のあたりまできて、やっと道の駅を見つけ、そこに車を停めた。
車の5人はほっと胸をなでおろす。なんとかパトカーや検問に引っかからずやって来れたのだ。
ひとまず昨晩のように椅子を倒したりして即席の寝床にする。
「うートイレトイレ」
と先ほどからトイレを求めて車を全力疾走させるよう後ろで喚いていた小泉さんが車を飛び出していく。トイレ休憩は適宜とっていたとはいえ、しおこんぶをつまみにしつつ途中のコンビニで買いこんだストロング系チューハイを飲んでいたからトイレが近くなるのは当たり前である。彼女の家でも思ったが、なんと酒癖の悪い人であるか。
さて、彼女が帰ってきたら寝袋を敷いてしまおうと思っていたが、5分、10分と経過してもなかなか帰ってこない。20分たって、これはさすがにおかしいぞと思い始めた。
「ねえ、小泉さん、いくらなんでも遅いよね」
私は言ったが、きっとみどりさんに睨まれる。
「デリカシーがない」
彼女はそう言って、もう先に寝床を敷いてしまおうと電気もつけずに足元にある寝袋に手を伸ばした。
その時だった。彼女が向きを変えて、後ろの荷台の方に置いているギターケースをばっと開ける。中から刀を取り出した。まだ鞘からは抜かない。
「み、みどりさん?」
私は驚いて言った。松代さんと千曲さんも呆気に取られている。
「しっ」みどりさんは小さな声で言った「囲まれている」
「囲まれているって……」私がそう言おうとしたが、彼女は私の口を手で覆った。
あたりは暗闇、虫の声だけ。するとその虫の声に交じって、なんと歌声のようなものが低く響いてくるのでる。
『宇陀の高城に 鴫罠張る
我が待つや 鴫は障らず
いすくはし くじら障る』
そしてそれに続いて、小泉さんと思われる悲鳴が聞こえてきたのである。
「これはいったい……相手の人数は」私はみどりさんの耳元でつぶやいた。
「雰囲気からざっと10名。普通の警察ではありません」
「特公?」
「おそらくは」
「逃げる? どうする?」前の席から松代さんが言った。
「冗談じゃありません。小泉さんを見捨てて逃げるなど」みどりさんが返す。
「じゃあどうするの?」
「今から戦います」
「4対10じゃない」
「あの2人を叩きこせば互角以上です」
「なるほど!」私は言った「名案です」
「ええ。私は抜刀して、3人は角棒を持って飛び出してください。その間に式神を相手の後ろに回り込ませます」
「式神って……え?」
千曲さんが困惑しているが構ってなどいられない。みどりさんはゲバ棒を渡す。そして式神の人形を取り出す。
「さあ、行きますよ!」
そう言ってドアを開けてみどりさんと我々は飛び出した。
飛び出したのであるが……
次の瞬間、強烈な光に当てられる。目がくらんだ。
そしてその光を受けてきらめく刃……それがみどりさんと、松代さん、千曲さんの喉元につきつけられていたのである。
珊瑚と瑠璃は無表情だった。珊瑚は斧の切っ先をみどりさんに、そして瑠璃は2つの釜の切っ先をそれぞれ松代さんと千曲さんに突き付けている。
「これはいったい……」みどりさんは絞り出すように言った。
「ごめんね、これがご主人様の命令なんだ」珊瑚は言った。
「悪く思わないでね」瑠璃も言う。
私は動けずにいた。足がわなわなと震えている。
光の向こうから人が何人か歩いてくる。うち一人は小泉さんだ。後ろ手に縛られている。
そして彼がが十分近づいたとき、私は目を見開いた。そう、その中央にいた人物に見覚えがあったのだ。
「あ、あなたは確か……」
「さようです」
そう、中央にいた人物こそ、かつて私とみどりさんを関東まで送り届けた、楠と名乗る老人であったのである。
そして当然、楠翁は膝をついた。後ろに付き従う人々も彼に倣った。
楠翁は顔を上げて言った。
「お迎えに上がりました、陛下」
彼は、唖然とする私に続けて言うのであった。
「いまや宝剣は南朝の元に戻りました。いまこそ正当なる南朝の帝として、天下に号令くださいませ!」




