第114話 出立
8月12日の朝を私は山梨県の山奥で迎えていた。
朝の光に目を覚ますと、まだ時刻は6時前。すでに松代さんと千曲さんは起きていて外で背伸びをしていたり、顔を洗ったりしていた。
私はみどりさんと小泉さんを揺り起こす。もぞもぞと二人は起き上がる。みどりさんは眠たげな眼をこすっていたが、起こしたのが私だと分かると、目をかっと見開いた。
「肇さんより後に起きることになるとは!」彼女は言った「まさか何もしていませんよね?」
「しているわけありません!」私は言った。
その時ガタっとドアが開いた。松代さんだった。
「おはよう。顔を洗ってきたらいいよ。すぐに出ようと思うから」
首にタオルをかけてTシャツを着た彼女はそういうのだった。
***
車が山を下る。廃旅館のあたりは電波が入ったり入らなかったりであり、車のラジオの電波も不安定であったが、青梅街道に近づくにつれ電波は入るようになってきた。
その結果、驚くべきことが分かった。みどりさんはニュースを見るなり叫んだ。
「昨日、自衛隊が丹生谷に総攻撃をかけたですって? そんなの聞いてないよ!」
「午前中に戦闘があったみたいですね」私は横から覗き込みながら言った「ということは、僕たちが宝剣を奪還するころにはすでに」
「なんで教えてくれなかったんでしょう? こんな大事なことを」
私はすこしうーんと考えてから、続けた。
「こっちを心配させたくなかったんじゃないですか。丹生谷で戦闘があろうとなかろうと、こちらの任務は変わらない。それに通信量を増やしては傍受されるリスクも増える。それを心配したんでしょう」
「ならニュース発表は? 防衛省の発表は夜中に行われたようですし」
「報道管制を敷きたかったんですよ、きっと。負け戦で、ほら、死人まで出たとあります」
「死人……」
みどりさんは顔を曇らせた。それは私も同じだった。ここまで来てもなお、我々の知人の誰かが殺された、もしくは人を殺しただなんて、思いたくはなかったのである。
「いやきっと、きっと大丈夫ですよ。みんな無事です」私は言った。「心配するのはよしましょう」
「本当に、そんなの心配している暇はないみたいだよ。今の私たちにはこっちの方がやばそうだ」
前の座席から松代さんの声がする。
ラジオは、首相が都内のテロと徳島の反乱を受けて、緊急事態宣言を発したと速報を流していた。
「あの緊急事態宣言でありますか!」小泉さんが叫ぶ「あの!」
「そう、あの緊急事態宣言だよ」
あの緊急事態宣言である。学校は休校となり、県外ナンバーの車は石を投げられ、外出しているだけで通報され、それでも外出を続ける老人によってトイレットペーパーとマスクが店頭から姿を消す、あの緊急事態宣言である。
「しかし今になって出すなんて。出すなら丹生谷に自衛隊を出動させた時では」
私がそう言うと、みどりさんはあきれたように首を横に振った。
「無駄ですよ。東京政府は地方で何があろうと動きません。私たちが昨日都心で暴れたからやっと緊急事態宣言を出したんですよ。自分の尻に火がつくまで奴らは何もしません」
「しかしこれはえらいことになったわよ」千曲さんは言った「間違いなく、鉄道は警戒されている。あなたたちを塩尻あたりで降ろすつもりだったけれど、それはリスクが高すぎる。こうなったらギリギリまで送り届けるしかないんじゃないかしら」
「そうなったら別の問題もあるよ」松代さんが言った「この車は松本ナンバーだろ、他県ナンバーなんてすごく警戒されるんじゃないかな。特に徳島では」
「官民そろって警戒するでしょうね」
「それじゃあ……」私はごくんとつばを飲み込んだ。
「でも行くしかないよ」松代さんは言った「捕まったとき私たちのことゲロられても困るし。一蓮托生だね」
「本当に」みどりさんは悪そうな笑みを浮かべた。
「ねえ、それとなのですが……」後ろの席から小泉さんがおずおずと言った。私とみどりさんは2列目、彼女は3列目に座っていた。「さっきからさっくんに電話をかけているのですが、一向に出ないのです。心配なのです」
「なんでかけているんですか?」私は尋ねた。
「小生はかわいい弟が心配なのです」
はあ、と私はため息をついた。
「小泉さん、気持ちはわかりますが、いまは余計な通信はしないでください。もし小泉さんも我々と一緒だとバレていたら、場所を特定される可能性も高まるんですよ」
「そ、それは……」
「大丈夫です、千秋さんに言っていますから、なんとかなりますよ」
「そうならいいのですが……」
「祈りましょう」
そう言って私は小泉さんの手をぎゅっと握ろうとした。しかし即座にみどりさんが跳ねのけていた。
「なに女の人の手を勝手に握ろうとしているんですか」みどりさんが言った。
「いや、これはそういうところでしょう、違いますか、小泉さん」
「え、ええとそれは……」
小泉さんはみどりさんの方を見た。みどりさんはじーっと小泉さんを見つめている。
「や、やっぱり遠慮させていただくのです……」
小泉さんはそう言って手を引っ込めた。
「肇さんはいつもいつも。そんなに手を握りたかったら私の手でも握っていてください」
そう言ってみどりさんは私の手に手を重ねてきたのだ。
正直ドキッとした。
それを小泉さんは見逃さなかったようだ。
後ろの席からシャッターを切る音が聞こえる。
「いいのです。逃避行とロマンス、こういうのが盛り上がるのです」
そんなことを呟いている。私たちは慌てて手を引っ込めて、たがいにそっぽを向かざるを得なかったのだった。




