第111話 病院
上野原皐月は狼狽していた。狼狽と言うより発狂寸前であった。
戦闘があったらしい。いや、あるという一報で朝たたき起こされた。前日もワンオペ診療を強要され、疲れすぎて逆に眠れないので睡眠導入剤を飲んで横になった。それが抜け切るか抜けきらないかと言うタイミングで起こされたのである。
それだけでも不機嫌であったが、しかし戦闘といっても前の2回も丹生谷側には怪我人は発生していない――彼女にとっては喜ぶべきか、悲しむべきか、微妙なところであるが――ために、捕虜の検診などの戦後処理がメインの職務であった。今回もそうだろうな、などと考えていたが、今回は違ったのである。
けが人が出たという連絡の直後、頭から血を流した人間が運ばれてきた。簡単な切り傷であったので止血した。その次に運ばれてきた人は肩を脱臼しているようであった。レントゲン室に運んで整復しようとしたとき、CPA(心肺停止)が運ばれてきた。
どうやら足の付け根を撃たれた様子である。大腿動脈からの失血によるショックでCPAとなっていた。胸骨圧迫と徒手換気による心肺蘇生を施されながら搬送された。すぐさまラインを確保し生理食塩水を全開で投与しながらアドレナリンを打つ。不整脈はなく、心電図は心静止(asystole)のままである。残念ながらこの場に輸血はない。現場にいた人間が足の付け根を縛ってさえいれば、と彼女が歯ぎしりしている時、もう一人重症が運ばれてきた。
彼は胸を撃ち抜かれていた。あえぐような呼吸をしていた。先の患者の心肺蘇生を救命救急士と看護助手まかせ、胸を聴診すると、撃たれた右肺の音は聞こえない。血気胸になっているに違いなかった。
彼女はすぐさま取り寄せていたチェストシールを貼った。これは一方向弁がついていて、空気を外に出すが、内に入れない。緊張性気胸のための、道具であった。
しかしこんなものでは時間稼ぎにしかならない。解決には手術が必要である。しかしこの診療所ではそんなことはできない。助けるためには自衛隊に泣いて和を乞うしかないが、そんなことはできるわけないのがこの状況である。仕方なしに彼女はモルヒネを投与して呼吸と苦痛を和らげた。そして振り返り、いまだ胸骨圧迫が続く患者に対し、死亡診断を下した。
***
坂本竜樹が目覚めた時、視界に入ったのは天井であった。
しみが見える。ひ、ふ、み、よ。しみを数えるのは人間の性なのであろうか、ぼーっとながめながら数えていた。
「目が覚めたの?」横から声が聞こえた。
視線を横にやると、右足にギプスをまかれ吊り上げられた少女が横になっている。周りを見回す。病院ではなかった。ここは学校の保健室のようである。
「ええと、ここは……」
「なんか、先生の話では、診療所の病室が足りないから、学校の保健室のベッドを使ってるらしいよ。軽症者は」
軽症者? と思った瞬間自分の右腕に痛みが走った。右腕にギプスが巻かれ、三角巾が取り付けられていた。
そうだ、と思い出していた。自分は戦闘中にけがをしたのだ。そしてここに運ばれている。
じゃあ隣の女は誰だ?
「ボクは卜部りんだよ。内務省抜刀隊の構成員」
「抜刀隊?!」
坂本太夫は起き上がった。そして痛みが響いたのか。腕を抑えながら言った。
「敵だろ、なんでこんなところに」
「上野原先生のおかげだよ」卜部りんは言った「敵味方なく戦闘員は助けてくれたよ。もちろん捕虜になったボクも」
「なんで俺と同じ病室にいるんだ」
「部屋が足りなかったんだよ。病人に敵味方もないから、同じ部屋というわけだ」
「……上野原先生と言ったよな、じゃあ丹生谷は勝ったのか」
「まあ官軍は撤退したよね」卜部さんは言った「そしてボクは捕虜となった」
「そうか……」
そう言って坂本太夫は横になった。卜部りんはその手を見つめた。
「なんだ、なにかあるか?」
「いや、でも、その手じゃ困るだろうな、って思って」
「骨折ぐらい数か月もあれば治るだろ」
「でも、その間、我慢できるの?」
「はい?」
「その右手で、しないのかな?」
そう言って卜部りんは右手を握りこぶしのように――正確には何かを握っているくらいの握りこみであるが――にして上下させた。
坂本太夫は顔を真っ赤にした。
「そ、それは……!」
「図星なんだ」卜部りんは言った「ねえ、ボクに協力してくれるなら、手伝うよ」
「買収なんてされないぞ!」坂本太夫は叫んだ。
「ふうん。でも男は下半身は正直だよ」
そう言って布団から起き上がろうとしたとき、ドアが開いた。
上野原先生が入ってきた。
「ああ、目覚めましたか」先生は言った。
「先生!」坂本太夫は言った「なんでこんなのと同室に! そもそも男女は別室にすべきでは」
「病室は足りないんです。我慢してください」そして卜部りんの方を見た。「いまから車いすに乗せてでも連れて来いとの命令、尋問の様子です」
「うへぇ」卜部りんは言った「でも仕方ないかな」
そう言って彼女は上野原先生が押してきた車椅子に移る。そして押されて部屋を去った。
後には坂本太夫が残された。
彼はよくわからない胸の高鳴りを感じていた。なんだこれは、あの女がどうしたというのだ、敵だというのに!
そう思っても身体は正直であった。彼は自らの欲望が増してくるのを理解しつつも、しかし右手が骨折しているため何ともしがたく、悶々とするのであった。




