第104話 遡上
2020/3/16 大幅修正
那賀川を一艘の小舟が進んでいく。
霧の中、視界はほとんどない。船は川から突き出た岩を避けるように進んでいく。
船の先に立っているのは抜刀隊参謀長安西一等陸尉。他に乗り込んでいるのは元抜刀隊隊長旭美幌(現副隊長補佐)、副隊長金城香子、その他数名。
抜刀隊隊長である和田はその船に乗ってはいなかった。別動隊を率いて、山道を進んでいたのである。
ここまで抜刀隊はまともな前線指揮官を安西しか有していなかった。しかし、和田が戻った今、部隊を分割して動かすことが可能となる。
和田は昨夜のうちに大井陸将補(第14旅団長)および奈良井1等陸佐(第15即応起動連隊長)と話をつけ、作戦を提案した。
霧を抜けることが必要であるため、先陣を務めるのは抜刀隊――すなわち内務省特別公安課および陸自鹿島教導隊の混成部隊で問題ない。だが円滑な作戦を遂行するには後方の自衛隊と一つの戦闘団を形成することが必要である。この連携がうまくいっていなかったことを和田は発見していた。
第14旅団のうち、香南市に駐屯していた第50普通科連隊(3個中隊からなる)は物部村にいまも釘づけにされている。北と南からも攻め入ることは可能――実際和田はその道を使って脱出した――であるが、いまだ勝機をつかめずにいる中でさらに兵力を分散させるのはよくない。防衛省や小心極まりない防衛大臣はやっと重い腰を上げて増援部隊を検討し始め、広島の第13旅団や伊丹の第3師団を動かすかどうか検討し始めたところだというが、まだまだめどは立たない。それに政府としても辺境の反乱に大軍を動員したとなっては為政者として鼎の軽重を問われかねない。そうであるから、今ここにある部隊で打開しなくてはならなかった。
和田は即座に部隊編成を作り出した。名を那賀戦闘団という。抜刀隊のほかに、3個普通科中隊、1個機動戦闘車隊、1個特科中隊などからなる。半ば曖昧であった総員100名弱の抜刀隊の編成は、やや小ぶりであるものの、1個中隊とみなすものとされた(注:通常1個中隊は200人ほどである)。それを3つの小隊として分割し、疑似的に陸自の編成にあわせる。抜刀隊隊長である和田はこの中隊の「中隊長」は務めないといい(別動隊を率いるため指揮がとれないからだ)、また後方の陸自との連携を重視して安西が務めることとなった。
そして3つの小隊「第1刀剣小隊」「第2祈祷師小隊」「第3祈祷師小隊」のうち、「第1刀剣小隊」が先鋒を務める。残る2者は戦闘よりも祈祷の方が得意であり、後方の自衛隊の投入をサポートするのである。その「第1刀剣小隊」を直接指揮するのが安西であり、これを3つの分隊に分割、安西、和田、そして卜部りんがそれぞれ事実上の指揮を執る。
そして抜刀隊副隊長の金城香子および元隊長・現隊長補佐の旭美幌は中隊本部付けとし、安西とともに先陣を切ることとなっていた。
作戦の概要は以下のとおりである。
丹生谷の防衛部隊は、まず川を堂々と遡上してくる小舟――安西らである――に気を取られる。懸念となるのはもちろんダムの放流であるが、これを何とかするのが和田率いる別動隊の仕事なのである。相手が小舟による陽動に引っかかっているうちに、上那賀地区まで進出して、ダムを抑える。
もちろんダムの放流は丹生谷にとっても最後の手段である。いったん放流すれば再び貯水率が上がるまで放流はできない。そしてそれは天候に左右されるのである。
そしてダムの占領に成功すればもう問題はない。川を伝って後方の普通科連隊が突入する。そして丹生谷は占領されるという寸法である
「本当に大丈夫なんですか、たとえば両岸から撃たれたりしたら」
不安そうに旭さんは呟いた。はあ、とため息をついて金城さんが答える。
「心配あるものですか。川の右岸を和田隊長の部隊が進んでいます。それに、先ほど左岸にはさきほど部隊を下ろしています」
「ええと、右がこっちで左が……あれ?」
なお左岸、右岸というのは川の上流から見て右か左かということで名前がつく。川を遡上しているこの船からすればあべこべとなる。それで旭さんは混乱しているのである。
なお、船は先ほどいったん左岸に船を寄せて、戦闘員を下ろしていた。卜部りんの部隊である。占領目標は日野谷水力発電所であり、これは丹生谷ダムからの水を用いた水力発電所で丹生谷地域の電力需要を賄っている。これも重要な戦略拠点ではあるが、ほかの二つの任務に比べると難易度や重要度は劣ると判断されたのであろう。司令官は戦闘能力から言えば金城香子がよかったであろうが、しかし、彼女はなぜか旭さんが中隊本部付けと知るや自分もそれを希望したのでああった・
そんな金城さんは、旭さんを見てため息をついていた。
「しっかりしてください。といっても、もう隊長ではないので、どちらでもいいのですが」
「ひどいよぉ」
そんな会話をしている時であった。
両側にそびえたつ山の上から、突如、ゴーン、ゴーンと鐘の音が響き始めた。
あたりを旭さんは見回す。やはり霧のため、よく見えない。安西は構わず船を進めた。
次の瞬間であった。
パシュ、っと船のすぐ前で水がはねた。
それにわずかに遅れて、谷間に響き渡るパーンという乾いた発砲音。
「ひぃっ」
旭さんが悲鳴を上げた。しかし安西も金城さんも動じない。
「おそらく警告射撃です。本気で撃ってはいません」
だがこの濃霧である。狙いなど定められるわけはない。次は誤射で撃たれるだけかもしれない。
「まあでも用心しなくてはいけませんね。総員、戦闘準備です」
安西がそう言うと、皆頷く。旭さんは目を回しながら、本来なら文官でありこんなことをさせられる身分ではない運命を呪いつつ、武器だと言って渡された弓を取った。というか弓が武器とはどういうことなのだ。第二次世界大戦で弓で敵兵を打ち倒した士官がいたというが、現代戦でこんなものを持っていても意味がないだろう。
そんな弓を撫でながら、身を縮めていると、金城さんが声を発した。
「中隊長、何かが向こうから来ます」
霧の奥に影が見えた。そしてその直後、ピー、ガーといった音の後、拡声器を通じた声が聞こえた。
「そこの舟、即時停船しなさい。さもなくば撃ちます」
安西は双眼鏡をとった。見れば、霧の奥から一層の小舟が進み出てくる。
後ろに控える戦闘員がガチャリと音を立てた。
「こちらから撃ってはいけません」安西は言った「相手の出方を見ます」
やがて相手の姿が見えた。舳先には童女が一人立っている。後ろには軍服らしきせ服に身を包んだ、モノクルの女。モノクルの女が拡声器を握っている。
船には、赤い幟が立っている。
「停船せよ」
再びモノクルの女は呼びかけてくる。あくまでこちらは現時点では陽動である。とにかく注意をこちらにひきつければよい。
安西はメガホンを手に取った。
「停船とは異なことを申される。我々は日本国の法に従い行動しているだけです」
「ここでは日本国の法は及ばないのです」モノクルの女は言った「そしてあなた方の天皇の威光もここには及びません」
「では諸君らを逮捕しなくてはなりません」安西は言った「内乱罪です」
モノクルの女は、ふっ、と笑った。
「あなた方は自分たちの立場がお分かりではないようです。両岸からは兵があなたたちを狙っています。いますぐ引きなさい」
「それで引くようなら、戦争なんて起きませんよ」
「交渉の余地はないようですね」
そう言うとモノクルの女が何かを幼女に言う。すると幼女はほら貝を噴いた。
旭さんはびくっとした。ほら貝の音は谷に響き渡る。
同時にパシュ、パシュ、と目の前の水面に水がはねる。続いて乾いた発砲音。
「武器の使用を許可します」
安西は言う。後ろの戦闘員が機関銃を取り出した。そして舳先に据え付ける。
「さあ、ぶっぱなしながら突っ込みますよ」
そう呟くと、安西は、高く上げた右手を下ろしたのであった。




