050 臨界
「やってくれるって!」
悠香は送られてきたメールを見るなり、大きな声でチームメートに報告した。
「マジ⁉」
真っ先に陽子が飛んで来た。この件で悠香に次いで心配していたのは、誰あろう陽子である。
「ほらほら、『俺の友達が引き受けてくれる』って!」
「やった……!」
続々と集まってきた四人は、顔を見交わし笑った。悠香もほっとして、椅子にへにゃりと座り込む。まさか自分の顔がダシにされたなどとは、夢にも思っていない。
──よかった……。これでまた、未来が繋がった……。
安堵の汗を拭く悠香に、亜衣が尋ねた。「じゃあ、この文脈だと私たちは駆動部分さえ作ればいいっていう事なのね?」
「うん、そうじゃないかなぁ」
「んじゃ今日の放課後、どんな風にするのか考えなきゃだね」
悠香が頷くと、さも機嫌良さそうに亜衣は自席へ戻っていく。眠気のせいか、その背中がぼんやりと霞んで見える。一限は寝ちゃおう、そう決めた悠香は早くも組んだ腕に顔を埋めた。
そのまま、いつしか時は六限まで進んでいた。
「……ちょっと、ハルカ?」
自分を呼ぶ声に、悠香はふと目を開けた。
教鞭を執る先生の立ち回りに、自然と目が向かう。
──ああ、あれって六限の数学の山国先生の……。
思ってから、悠香はすぐさま自分の思ったことの異常性に気がついた。六限⁉
「大丈夫? 昼休みもずっとぐったりしてたし……」
すぐ後ろの席の菜摘が、心配そうな声を上げている。「体調、悪いの?」
「ううん。別に何も──」
言いかけた悠香の身体を、すうっと寒気が通過する。
「ひゃうっ⁉」
「ちょっと、ホントに大丈夫なの?」
さすがに不審に思ったのだろう、菜摘は悠香を振り返らせると額に手をやった。
「……やばいよ、ハルカ。熱っぽいみたい。額がすっごく熱いよ」
「そうなの……?」
声にした言葉が、頭の中でガンガン響く。比喩表現ではなく物理的にだ。気のせいか、寒気も断続的なものから恒常的なものに変化している。
悠香はようやく、身体に異常が起きている事を自覚した。間違いない、風邪だ。
「無理しちゃダメだよ、保健室行きなよ」
「まだ、まだ大丈へくしゅっ! ……なんか頭、痛い」
「だから言ったのに……」
菜摘の優しさは感じていたが、悠香は尚も教室に留まる気まんまんだ。腕を掴み保健室に連れて行こうとしてくれていたその手を、そっと振り払う。
「……大丈夫。まだ私、頑張るよ」
逃げたくない。
悠香はただ、そう願っただけだ。
──私、リーダーだもん。いざという時のために私がいるんだもん。私が抜けるわけにいかないし、そんなことしたくない。全部の作業を、この目で見ていたいんだもん……。
自分がいなくなったら、まとめ役の不在になったこのチームは再びばらばらになってしまう。悠香にはそれが、何よりも恐ろしい。
意地っ張りでも、何でもない。ただ、自分がいなければならないという義務感だけが、悠香を何とか教室に引き留めていた。
だがしかし、限界はあっさりやって来た。五人が教室に集まり、さあ始めようという段になって、ふっと力が抜けて悠香は倒れてしまったのである。
「すっごい熱い! さっきより絶対上がってるよ!」
悲鳴のごとき声を上げた菜摘も含め、全員が一様に深刻な表情をしていた。当の悠香も、事態の重さを今頃になってようやく悟っていた。
「……ハルカ、昨日いつ寝た?」
まず陽子が尋ねた。悠香は大人しく答える。「……二時」
「その生活、いつから続けてきた?」
「……チームが一度バラけちゃった、次の夜辺りから」
「丸五日以上か……」
そりゃ風邪引く訳だよ。陽子の目がそう語っている。元から夜型人間だった訳でもない悠香が、それだけ長い期間を無茶し続けたのだ。体調を悪くしない方が不自然である。
「でも……」
そう言って立ち上がろうとした悠香だったが、「げほっごほっ!」と咳をしたかと思うと、また座り込んでしまった。頭が火照る、視界が火照る。何もかもが気だるい。
落胆のため息が、全員に広がった。
「……ハルカ。今日はもう、帰ろう」
そう言ったのは、亜衣である。
「ともかく体調を崩しちゃった以上、治すのが先だよ。その間に私たち、少しでも進めておくから」
「完治するまでは、学校も休んだ方がいいよ」
菜摘までもがそう訴える。
それでもうんと言えない悠香の手を、麗がそっと握って包んだ。熱で潤んだ悠香の目を見て、真っ直ぐに言葉を放つ。
「大丈夫。ハルカがいなくても、何とかするから。私たちを信じて」
──メンバーを信じることも、きっとリーダーには必要な素質なんだろうな……。
悠香はついに、こくんと首を前に振った。
自分がここで頷かなければ、先には進めないと思った。
「あたしの手、掴んでもいいからね」
陽子の言葉に甘えて、何とかふらふらと立ち上がる。家路は遥かに遠いが、何としてでも帰らなければならない。
「ごめんね、みんな……」
その言葉を何度も繰り返しながら、悠香は教室を後にした。味わったことのない敗北感と、チームがばらばらだった間にはなかった果てしない不安感が、寒気よりも深く全身に染み込んでいた。
「……ハルカ、あたしたちのせいで無茶したんだろうな……」
リーダーの欠けた教室で、ぽつりと陽子は呟いた。
他の三人も、無言で頷く。
「私たちが離れてる間にも、ずっと私たちを信じて製作を続けてきた訳でしょ。私だったら絶対できない芸当だよ」
「だからって、何も身体を壊す寸前まで追い込まなくても……」
「……夢中になると何も見えなくなるタイプだからな、ハルカは。気付けなかったあたしたちにも、非があるよ」
「独りで帰しちゃったけど、大丈夫だったのかな……」
四人は代わり番こに口を開いては、言いたいことを吐き出した。そうやってでも“不安”を打ち消さないと、やっていられなかった。
「……ハルカの分も、あたしたちで頑張るしかないよ。それがあたしたちにできる全てだよ」
自分を含めたみんなを鼓舞するように、陽子は手を叩いて声を上げた。「さ、始めよう。ハルカのお兄さんの友達に作ってもらう上部に恥じないくらい、あたしたちもしっかりした駆動部分を組み立てなきゃ!」
「うん……」
「……そうだね」
互いに目配せし合い、四人は決意を確認したのだった。胸中で疼く、悠香とは違った意味での“不安”を、解消しきれずに溶かしながら。
◆
ピンポーン。
インターホンに急かされ、ドアを開けに向かった母の胸に。
「着いたぁ……」
ぐらりと悠香が倒れ込んできた。
「どうしたの、珍しく早いじゃない」
訝しげに母は尋ねるが、悠香は返事などできるような容体ではない。意識も朦朧としているのだろう、その瞳がどんよりと濁っている。
もしや、ハルカは。母はすぐに中にとって返すと、体温計を持ってきた。悠香の脇の下に挟み込み、反応を見ること二分。アラーム音が鳴り響く。
「──三十八度八分⁉」
息苦しそうな悠香に、母は絶叫した。とりあえず、寝かさなければ……!
「ユウヤ! ユウヤちょっと来て!」
階下からの呼び声に非常事態を察したのか、友弥が駆け降りてくる。「どうしたの、母さん」
「ハルカを自分の部屋に連れていってもらえる⁉」
母は懇願した。玄関までやって来た友弥が、母にすがる悠香の姿を見るなり固まった。
「高熱があるの!」
「じゃあ……風邪か?」
「たぶんそうね、だとしても一体どこから感染ったのかしら……」
「とにかく分かった。母さん、ハルカの荷物とか持ってきてくれる?」
言うが早いか、友弥はぐったりとする悠香の背中に手を回した。例のごとくお姫様抱っこである。真面目な話、この方がよほど機動力がいいのである。