045 黄昏の教室で㈢
「…………!」
悠香は目を開けた。死んでいない、それどころか痛みすらない。
転げ落ちた悠香の身体を支えるように、誰かが後ろから抱き締めていた。
それが誰なのか、悠香はすぐに悟った。
「間に……合った……」
耳元で吐息が舞っていた。肩で激しい息をしながら、亜衣が悠香を見下ろしていたのだ。
「アイちゃん……!」
悠香は血の気が引くのを感じた。
──そんな、聞いてただなんて聞いてないよ。私さっき、アイちゃんの実名出して言っちゃったよ……!
叩かれるか、蹴られるか。悠香は小さく縮こまった。……つもりだった。
ところが。亜衣は力を奮うどころか、悠香をそっと床に下ろしたのである。
「ハルカ……!」
ぱたぱたと駆け寄ってきた麗の顔が、不安と恐怖ですっかり蒼褪めていた。同時に、悠香の横にぺたんと亜衣が座り込む。文字通り力が抜け、支えを失ったようにして。
悠香は振り向いた。思いっきり開かれた廊下のドアが、視界の先で陽を浴びて光っていた。亜衣はあの場所にいて、悠香が落ちたのを見て中へと飛び込んできたのだ。
「……ごめんを言わなきゃいけないのは、私の方だよ」
そう言った時、俯いた亜衣の顔から雫がいくつも落ちて、灰色の床に消えた。
「アイ……ちゃん……?」
「私、本気で言った訳じゃなかったんだよ……。いつまでもはっきりしないハルカが嫌で嫌で、それでつい、あんな言い方しちゃったけど、まさかホントに一人でやるなんて……思って、なかった、から……」
地面にすがるように亜衣は手をつき、震えていた。悠香はまだ亜衣の言ったことが飲み込めないまま、打ち込まれた杭みたいに膝をついて動かなかった。
やがて亜衣の発言は、綿に染み込む水のように悠香の頭の中を理解させていった。
「私のせいだよ、私のせいでハルカはケガしたんだ……。レイもハルカも、何も、悪くない……。こうなる可能性を考えもしなかった……、無責任なこと言った私が、戦犯だよ……。ごめん、ごめんね……!」
平伏しながら、亜衣は泣いていた。
後悔の涙だった。
悠香の話を聞き、数日前の記憶を読み返し、そこでやっと分かったのだった。悠香は独りを望んだのではなく、独りでやるしかないと思い込んでいたのだと。そして思い込ませたのは、誰あろう自分の台詞なのだと。
悠香の夢云々ではない。別れたあの日、亜衣が怒りに任せて『ハルカ一人でやれば?』なんて言わなければ、きっとこんなことにはならなかった。悠香の心に『私は一人なんだ』と刻むこともなかったし、苦手なハンダ鏝を盗ませることも、無理に使って火傷させることも、──全ては、なかったのかもしれないのだと。
──私が放った不用意なコトバで、ハルカは痛い思いをしなきゃならなくなったんだ。私、最低だ。サイテイだ。サイテイだ……!
自己暗示をかけるがの如く、亜衣はそう強く念じ続けていた。十四年の人生の中で、こんなに自分がちっぽけで、こんなに情けなく思えたことなんて、一度もなかった。今はただ、謝りたかった。自分を責めたかった。
「アイちゃん……。そんな、私……」
がくんと膝を折った悠香の目にも、立ち尽くす麗の瞳にも、夕焼け色に光る涙が溜まっていた。
今、どうしたらいいのか、誰にも分かっていなかった。今も昔も同じだ、もう何も……分からない。
その時、三人は教室の隅に、不意に人の気配を感じた。
「……あたし、初めて見たよ。みんなのそんな顔」
その声に悠香は顔を上げた。亜衣が駆け込んできたあの扉から、今まさに歩いて入ってきた人影──陽子が、そこにいた。
「ヨーコ」
久しぶりにその名前を呼んだ気がして、悠香には何だか懐かしい感覚だった。陽子の顔には、見たことがないくらいに穏やかな表情が浮かんでいる。いや、断言できる。ここ二年の付き合いの中で陽子がこんなに静かに笑っているところなんて、見たことがない。
「……アイは地味にべそ泣きキャラだからともかく、レイが涙ぐむなんて考えられない風景だよね。あたしったら、すごいついてるのかも」
冗談めかしたその言い方に、ひどい、とアイが頬を拭う。
言われてみれば、そうかもしれない。悠香は改めて、自分以外の三人をじっと見つめた。こんなに感情的になっている麗も、慟哭する亜衣も、初めて出会った顔だった。ということは、悠香自身も?
──分からないよ。自分が一番、分かんない。
心の中で呟いた悠香の前に、陽子はやって来た。膝立ちの悠香からすれば陽子は見下ろす立場だが、不思議と支配されている気はしなかった。
「……ハルカ、ごめん」
そう言う陽子の顔からは、いつしか笑みが完全に消えていた。
「あたしもハルカのこと、必要もない言葉で罵倒しすぎたよね。こんなこと言うのは筋じゃないと思うけど、謝らせてくれないかな……」
「…………」
また涙が込み上げてきて、悠香は陽子から目を逸らした。焦ったように陽子は、次の言葉を続ける。
「……あたしが腹を立てたのはさ、アイとは違う理由なんだ。もう残りの日数も少ないのにあたしたちトラブってばっかりで、その上リーダーが一番働いてくれない──少なくともあの時あたしはそう思ったし、だから苛々してたんだ。もっとしっかりしてよ、それもしないんならもういいよ、そう、思ってたんだ」
悠香は目を閉じる。
目尻から落ちた涙が、膝を打った。少し、温かくなっていた。
「だけどね」
陽子はそこで一息ついた。
「今はそれが、間違いだったなって思う。あたしたち四人がみんないなくなってからのたった数日間で、ハルカは四人分以上も頑張ってロボットをここまで作り上げたんだね。あたし、最初にこれ見た時、目を疑ったよ。ハルカが順調って言ってたのは、こういう事だったんだって思ってさ。あたしたち五人の時より、ずっとずうっと進んでる。
ごめんハルカ。あの時、信じてあげられなくて。ハルカはあたしよりも、ここにいる誰よりも──すごいよ」
「わっ、私も、すごいと思う……」
しゃくり上げながら亜衣も口を開いた。「私たち、あんなに心ないこと言ったのに、ハルカはそれでも諦めないで、頑張って……。私なんか、より、ずっとずっと……」
悠香にはまだ、その幻想が受け入れられそうになかった。
──だって。私の周りにまたみんながいるなんて。そんな、嘘みたいな。
答えを求めようと虚空を見ても、何も見えては来ない。悠香はふらふらと立ち上がり、並べられた机に寄り掛かって、言った。半分くらい、本気で。
「……夢だったら、早く醒めてくれたらいいのに」
その手を、麗が握った。はっとした悠香と麗の目が、ばっちり合う。
「夢じゃない。私は、……私たちは、ちゃんとここにいる」
いつもの麗らしい静かな、けれど強い思いで煮えたぎった声で、麗はそう言い切った。奥で二人が強く頷いたのが、ぼやけ掠れて見えなくなる。
悠香の瞳孔は見る見る開いた。何事か言いたいことが思い浮かぶたびに口が開いて、そして閉じた。
──何か、言わなきゃ。
ごくんと喉を鳴らすと、悠香は息を吸い込んだ。
「……私、その、わたし──」
せっかく何か言おうとした、次の瞬間。
「遅くなってごめ────んっ!」
絶叫と共に教室のドアがバンと開いた。今の声は菜摘だ。四人の視線が向かった先には案の定、パソコンを脇に抱えた菜摘が立っていた。
唖然とする皆には気づいていないらしく、はぁはぁと息を吐き出しながら菜摘は悠香を目で捉えた。そして。
「ハルカごめんっ! 部活に顔出しておきたかったから……! 私、まだロボット作りに参加したいの! ていうか、させて! お願いします!」
大きく大きく、お辞儀をしたのである。
「……あ、あの……」
もう何が何だか分からない。すっかり混乱した悠香は、霊みたいに手をふらふらと漂わせる。その妙な挙動で、菜摘はようやく冷静になったみたいだった。
「……あれ、なんでみんなここにいるの?」
「気づくの遅いよ」
たはは、と笑ったのは陽子だけだった。麗も悠香も、神妙な顔つきなままだ。
菜摘はすぐに、沈鬱なその場の空気を嗅ぎとった。そして同時に、自分がそれを盛大にぶち壊してしまったと思った。
──やばい! 私がここでまた、みんなの間に亀裂入れちゃう訳にはいかないのに!
特に亜衣辺りからの罵言を予感し、目をぎゅっと閉じかけた菜摘だったが、誰からも反応は返ってこない。
「……あ、あれ?」
思わず言葉になってしまう。
「アイとかヨーコとか、絶対怒ると思ったのに。『うるさいよ!』とか……」
途端、目の前の亜衣がさらに下を向いてしまった。悠香だけでなく、菜摘にまでそんな風に思われていたなんて。ショックが二倍なら落ち込み方も二倍だ。
「……確かに、珍しいかも」
ぼそっ、と麗が呟く。後を追うように陽子が、「自信家のアイがここまで凹んでるの、なかなか見れないからね。ビデオでも撮っとこうか」
「うぅ……」
ますます立場がなくなって、まさしく字のごとく縮こまる亜衣。事情も分からないままにくすっと笑った菜摘に、麗も陽子も微笑んだ。
悲しみと驚きと、他にも色んな気持ちがごちゃごちゃにぶつかって溶けて混ざりあって、何やら得体の知れない空気の部屋が出来上がってしまっている。
なんで泣いていたのか、何に悲痛になって嘆いていたのか、もう悠香にはよく思い出せない。わざわざ思い出したくもない。
だったらもう、涙は要らない。悠香は右手で机を突き放し、自分の足でちゃんと立ち上がった。そして余った左手でそっと、両方の目を拭いた。
──みんな、ここにいる。
悠香は一同を見渡した。握った右手の拳が、柔らかに痛い。
──また離ればなれになる前に、伝えなきゃ。私の思い、私の願い。もう
心に隠しっぱなしになんてしたくない。伝えなきゃ、伝わらないよ。
立ち上がったのに気づいたのか、四人全員が悠香を見つめていた。見られるのも、嫌じゃないな。そんなことを思いながら、悠香は口を開けた。言いたいことはいつだって、この胸の奥に見えるように仕舞われている。