044 黄昏の教室で㈡
そこまでの一部始終を、扉の外からじっと見ている人影がいた。
教室に忘れ物をしたのを思い出し、探しに戻ってきた亜衣であった。
──やっぱり、そういう事だったんだ。
亜衣は大きく大きく、息をする。如何わしいシーンを覗いている訳でもないのに、こんなに胸が高鳴っているのはなぜだろうか。
唇を噛んだ亜衣の背中を、とんとんと誰かが叩いた。振り向くと、そこには陽子が立っている。しまった、と亜衣は思った。陽子と待ち合わせて勉強する手筈だったのに、すっかり忘れていた。
「どこ行ってたのよ。図書館棟の前で落ち合おうって言ってたじゃん」
「ごめん、つい……」
「何見てるの?」
亜衣がドアの隙間から中を覗いていたのに、陽子は気がついたみたいだった。自分もそっと近寄ると、中をちらりと見る。
「うそ……」
ごくん、と喉が鳴る音がした。
どれに対する『うそ』だったのだろう。多分、視覚情報から得られる全てだ。亜衣はそう感じた。
「教室に忘れ物したなって思ってここに来たとき、レイが入ってく所だったの。やっぱりハルカ、ハンダ鏝で火傷を負ってたみたい」
「そうだろうなとは思ってたけど……」
吐息混じりの声で、陽子は呟いた。「信じられない。あたしたちが抜ける宣言した時、ロボットあんなに進んでなかったのに。まさかあれ全部、ハルカが……?」
状況証拠から言っても、そうとしか思えないだろう。亜衣にしたって俄かには信じられないのだ。
「……すごいよ」
陽子は唸るように言葉を続ける。
「あたしたち、ハルカのこと過小評価し過ぎてたんじゃ……。何やってもぼんやり、ただ偉そうに自己主張するだけの存在って、あたし正直思ってたけど……」
「……そんな生半可な意気じゃ、ないよね」
「あたしたち、あんなにハルカのことボロクソに貶したのに。……それでもあの子は立ち上がって、あそこまで仕上げたんだ」
陽子は早くも、その進度に納得しているようだった。
だが、亜衣の腑にはまだ、落ちそうにない。
──それだけで?
自らの疑問の居所を、亜衣は胸の中で口にした。確かに、色々言った自覚はある。亜衣にだってある。
──左手を負傷してまでそんなに無理するくらいなら、素直に私たちに言えばいいじゃん。私たちだって夜叉じゃあるまいし、お願いしますって言われてまで拒否したりはしないよ。或いは私たちでダメなら、他にもいっぱい面子はいるじゃない。
すればいい努力を、悠香はしていない。でも『仲間なんていなくていいから』という理由は、悠香の性格を考えると難があるように感じられた。仲間に頼ってここまで来た悠香が、今頃になって考えを変えるとは思えなかった。
──だったら、なぜ?
亜衣が思えば思うほど、目の前の景色はいよいよ色濃く、深くなっていく。
しんとした教室の中。
「……レイちゃんがいなかったからじゃ、ないよ」
悠香はようやく、そう言えた。
麗の瞳が疑いの色に濁った。悠香はロボットに向き直ると、そっとその表面を撫でる。もちろん、右手で。
「誰か一人でも欠けてたら、私はこうしたと思うんだ。だって、誰かが欠けたその人を補わなきゃいけないもん。そのために、私はいるんだもん」
「…………」
「私だけは、みんなと違って何もできなくて、でもその分、何でもできるから」
北上受け売りのあの言葉を口にすると、悠香は笑った。意識した訳ではなくても、それは自虐を含んだ悲しい笑いだった。
「だから、みんないなくなったら、私がみんなになるの」
その覚悟は、口先三寸ではない。悠香の心には今や、現実を受け止めるためのはっきりとした覚悟ができていた。
麗がいない分は、自分の頑張りで補う。そう思いそれを実行することで、悠香は抜けていってしまったメンバーを怨んだりするのを防ぐことができていた。昨日の夜、火傷の治療をしながら一番に心を埋めていたのは、やり切ったという達成感にも似た安心だった。
そして同時に、罪悪感にも近しい後ろめたさと、肌が凍るような孤独感を感じたのだった。
麗はまだ、黙っている。
悠香は麗に聞こえないように、はぁ、とため息をついた。何かを期待していたらしい自分へのため息だったが、誤解を与えたくはなかったのだ。
そのまま、作業に戻ろうとしたが。
「って、次はこれかぁ……」
思わず呟いてしまった。悠香の目の前にどんと置かれているのは、見るからに鈍重そうな巨大な箱。その正体は、大型鉛シールド電池だ。
鉛を電極に使用し、自動車用バッテリーにも採用されている鉛蓄電池。それにシールド保護を施し、液漏れやメンテナンスの手間を省いて簡易に使用できるようにしたのが鉛シールド電池だ。チーム解散後、悠香がオンライン通販サイトで仕入れたその電池は、錘としての効果も兼ねるために、あえて重量のとんでもなく重たいものを選んでいる。さっきは左腕だけで頑張って支えられたが、持ち上げるのとでは事情が違う。
──左手、ちょっとくらいなら大丈夫かな。
悠香は左手を見る。うん、と頷く左手だったが、紛れもなく悠香の自演である。
──いいや、やっちゃえ!
息を止めた悠香は、電池の両側に手を回し──、
「痛いっ!」
やっぱり飛び退いたのだった。痛すぎる。きれいな直方体の角が手のひらに食い込んで、めちゃくちゃ痛い。
そこに、麗が進み出てきた。
すっと延べた細い腕で電池を掴むと、麗はそれを何とか目的の場所へ降ろした。錘の乗ったロボットは安定し、ぐらつきがなくなる。これで配線さえしてしまえば、もうこのロボットは完成だ。
「レイちゃん……」
茫然とした口調で、悠香は尋ねた。麗はこくんと頷き、図面を見る。
次はどれ? ──彼女がもし無口でなかったなら、すぐにそう問うていたに違いなかった。
そして、そうであるからこそ。
「……ごめんね、手伝わせちゃって」
次の瞬間の言動を、麗はきっと予想もしなかったはずである。
その言葉とともに、悠香は図面をすっと取ったのだ。
「…………」
麗は無言で口をぱくぱくさせた。訳が分からなかったのだろう。この中で分かっているのは、外で見ている分を加えても悠香だけだ。
「ここから先は左手がなくても大丈夫。だから、私がやるね」
悠香は静かに告げた。痛い方の左手に必要なコード類や基盤を持ち、右手を使って机の上によじ登る。
「……なんで?」
そこまでいったところで、ようやく麗は訊いてきた。
“どうして私は拒絶されたんだろう。分からない。理由が知りたい”。たった一言にそれだけの思いが詰まっているのは、もしかしたら麗くらいかもしれない。
悠香は答える。
「私がケガしてるから、手伝ってくれるんだよね。私、大丈夫だから。まだ一人で頑張れるから。みんなの手を借りなくても、なんとか完成させてみせるから。さっきは嬉しかったしありがたかったけど、もう……いいの」
逆光で暗くなった麗の顔は、さらに青く、黒くなった。悲痛な麗の姿を前にしても、悠香はそれ以上の何かをしようとは思わなかった。
悠香は知らないが、麗が教室に来た理由は他でもなかった。
再びチームに入ることを、麗は希望していたのだ。
悠香が教室で作業をしているのは知っていたし、単独で頑張っているのも知っていた。浅野と悠香のやり取りを聞き、父の言葉を受け止め、この日までずっと麗は悩み続けていたのだ。得た結論を携えて教室に行き、きちんと気持ちを伝えたい。──それが、麗がここに来た目的だった。
麗にしたってそれは、考えて考えて考え抜いた末の結論だった。だがそれを悠香は、たった数秒の動作で根こそぎ否定した。そんな、見せかけの善意のつもりじゃなかったのに。いくらそう思っても、思うだけでは悠香には伝わらない。けれど麗にとっては、『私もやりたい』の一言を口にするのに必要な勇気は、あまりにも途方もない大きさだった。
生まれて初めて感じる『悔しい』という感情に麗は戸惑い、それがますます言葉を奪っていく。
悠香も悠香で、前向きに考えるということはもう、できなくなっていた。
「……私ね、申し訳ないことしたなってずっと思ってたの」
机の上で手を動かしながら悠香は一生懸命に口を開き、言葉を発する。相手は無論、麗だ。
「レイちゃんを誘った時、まるで誘導尋問みたいな問いかけをしたじゃない。事情の説明もなしに『どう?』って聞いて、レイちゃんには何の配慮もしてなかったじゃない。仲間に引き入れる気があるのなら、普通はそんなことしないよね。けど私、あの時は夢中だったから、そこまで考えが至らなかったんだ……。
ごめんね。本当に、ごめん。やりたいって決まってもいないのにこんな大変な活動に巻き込んで、ほんとにごめんね。他のみんなにも、同じこと言わなきゃいけないんだけど」
細かい部品を睨む目が、その時ゆらりとぐらついた。構うもんか、と悠香はコネクターを差し込む。ぐいっと中に入る感覚が指先から伝わって、思わずほっとする。
「…………私は」
麗は何かを言いかけたが、ついに言葉にならなかった。ううん、何でもない。そんな無言の意思表示に、悠香はすぐに気づいた。
──当然だよね。突然こんな話されたって、面食らうよね。気持ち悪いよね。
悠香の思考はすっかり自虐の色に染まっていた。そしてそれは必然、言葉にも表れる。
「私、この学校に入った時からずっと、劣等意識……みたいなものを感じてたの。みんなみんな部活も勉強も頑張って、認められてる自由も謳歌してるみたいなのに、私だけはしたいこともすべきことも何一つ進まなくって、なんかせっかく手に入れた日々をドブに捨ててるみたいで……。だから、ロボット作りっていう目標に飛び付いたし、何より同じ目標に向かっていける仲間がいたのが、本当に嬉しかったんだ。事実だよ、これ?
でも私は、そこまでだった。みんなと一緒に何かをしてる、そのことそのものに楽しみを覚えてただけだった。真剣に取り組んでくれてたみんなからしたら、信じられないよね。いくら多数決で決まったって言ったって、リーダーがそんな有り様じゃ、どうしようもないよね……」
「…………」
「それでも私、まだ諦めたくなかった。またみんなと一緒に頑張ってみたかったの。だから知り合いの人に助言されて、一人だけで再開してみたんだ。こうすれば『まだやってるよ』アピールになるから、またきっと集まってきてくれるよ。って、その人は言ってたんだ。
でも、ここ数日間、一人でやるようになってやっと分かった。みんながやってくれてた仕事が、私にはどんなに大変で、どんなに私にとって困難なのかって。同じだけか、或いはきっとそれ以上に、みんなは頑張ってくれていたんだって。私は大きいことなんて一つも言えない立場だったんだなって、改めて気づかされた。
私はまだ、頑張りたい。ロボットがぜんぶできて、ちゃんと会場を走り回ってくれるまで、諦めたくないよ。でもそれは、私一人でやる。アイちゃんに言われた通り、私一人だけで頑張るよ。だって、これはあくまでも、私の……趣味みたいなモノなんだもん。
だから私、やっぱり、…………その…………」
ぽろぽろと零れていた言葉が、そこで咽頭に詰まった。
悠香の手から滑り落ちた金具が、ロボットの上部に命中して間抜けな音を立てる。
「……わたし……」
もう一度、悠香はそう繰り返した。
でもどうしても、そこから先が言えなくて。言いたくなくて。
──『だから、もう私なんかに関わらないでもいいんだよ』。
そんなこと、とても言えなくて。
正面から見つめた窓の外が、その手前に立って悠香を見上げる麗が、何もかもが昔のように、眩しすぎた。
──再開しなきゃ。
突っ立っていたって何も進まない。力の抜けかけた足を踏ん張り、悠香はまたロボットに向かって屈もうとした。
あっ、と誰かが吐息みたいな声を上げた。その意味を知った時には、もう遅すぎた。
「────っ!」
悠香は床を踏み外していたのだ。
慌ててバランスを取ろうと腕をぐるぐる振ったが、かえって重心は後ろに傾いた。がたんと机が鳴り、残っていた方の足もが空中に投げ出される。視界がぐるっと宙返りして、天井に嵌まった蛍光灯がギラリと陽光を反射した。
「ハルカっ⁉」
叫んだのは麗か? それとも?
どっちでもいいや、と悠香は笑った。
足場をよく見ていなかった、悠香が悪いのだ。
ああ、そうだ。
これまでの全ては、何もかも、悠香が悪いのだから────
ドサッ!