035 解散
──嘘でしょ⁉
浅野は唖然とするあまり、椅子からずり落ちそうになった。
まさか高梁の口から、処分保留の意見が投じられるなんて思ってもみなかったのだ。
「高梁先生の意見を尊重しましょう。今日の所は保留として、そうですな──二週間後の会議までに結論を纏めたい。先生方、宜しく頼みます」
ほっとしたように早口で喋る校長の声は、ざわめきに包まれた教師たちの会話で半分くらいしか聞こえなかった。
長い長い会議が、やっと終わった。浅野も生徒みたく机に寝そべって居眠りしたい気分だったが、頭を振って何とか眠気を弾き出した。まだ、することがある。
悠香たちの起こした事故で、一番に迷惑を被ったのは高梁のはずだ。原理原則には基本的には従うのが、高梁みたいな物理屋のイメージでもあった。
なのにどうして、保留にしたのだろう。信濃や千曲が『退学処分』と叫ぶのは許せないが、高梁が同じ事を言うのであれば仕方ない。ついさっき高梁が口を開く寸前まで、浅野は半ば諦め気味にそう思っていたのに。
「あの、高梁先生」
会議室をさっさと出ていこうとする高梁を、浅野は呼び止めた。
振り向いた高梁の両の瞳が、訝しげに浅野を見つめている。少し自分より背の高いその相手を、浅野は見上げ返した。「あの、先ほどはいったい」
「私は玉川ハルカたちを許すとは言っていませんよ」
先に言われた。
「生徒の失敗や処分に関して、私には私なりの考えがある。それを主張してもいいが、それを口にすると決定がますます先になりそうでしたのでね。こんな下らない議論をして貴重な時間を潰すくらいなら、とっととあの抜き打ちテストの採点を終えて研究に勤しみたい。常願寺くんの分もあるから、採点が二倍になってしまったもので」
浅野に返事の暇も与えぬまま、振り切るように高梁はすたすたと歩き去った。颯爽と翻る白衣が、一月前に廊下で見たときよりも純に見えた。
「…………」
一先ず、首の皮は繋がったのだろうか。
ただ浅野に分かったのは、高梁は意外とあっさりしているらしい? という事。
……そして、この山手女子の教師陣の中では、自由を規制することへの賛成票が既にかなり多くを占めるようになってきている可能性が高い、という事だけだった。
◆
今日もまた、昨日の月曜日と同じように、無為な時間が過ぎていこうとしていた。
事故から丸三日目。
活動場所までも失った悠香たち五人は、放課後になってクラスメートたちが帰った後もいつまでも、教室に残っていた。
別に、何をするわけでもなかった。三々五々あちこちを向いて座ったまま、ただひたすらに時の経過を待っていた。
製作に取り掛かれないのは意欲が削がれたからだけではない。必要な工具類を物理実験室の奥に仕舞われてしまっているという、至極現実的な事実もそこには横たわっている。
それだけという訳でも、ないのだが。
「……こいつ、まだ動かないんだよね」
亜衣はこつんと、中指の関節でリフトアップロボットを小突いた。少し揺れた巨体の向こうで、麗が頷く。
「まだ、電池を換えてないから」
亜衣は頭をがりがりと掻いた。
「私も調べたんだよ。そいつの計算、やり直してさ。そしたら、性能がすっごく高くてかつ軽い、なんて無茶な要求をされてる事が分かったんだよね……。どうすりゃいいの、そんなの私たちが持ってるような電池じゃどうしようもないよ」
長良が提案したリチウムポリマー電池──正確には『リチウムイオンポリマー二次電池』は、起電力が大きくエネルギー密度も高いという特徴を持つ電池だ。軽量で安全に扱える事から利便性が高く、近年打ち上げられた人工衛星の多くにも採用されている高性能品であった。
しかしながら、高い。コストがべらぼうに高いのだ。悠香たちの求めるスペックを手に入れるのに、お金という壁はあまりにも長大なのだった。
「……それ以外だって、みんなそうじゃない」
今度は陽子だ。「スケジュールを見ても、何もかもが遅れてる。本当なら今頃は、そこのそいつを作るのに専念できていたはずなのに」
陽子の指差す先には、黒ずんだ無惨な姿を西陽に晒している輸送ロボットがある。
「電池のショートで発火かぁ」
菜摘も頭を抱え込みながら、もごもごと呟いた。「あるあるな初歩ミスじゃん……。アルコールランプの放置だって人為ミスだし、こんなことでいちいち製作中断なんて私たちくらいだよね、きっと」
──悪かったよ。その初歩ミス、起こしたの私だよ。
謝るというよりムッとするように、亜衣は心の奥で溢していた。
実は、ショートした原因は麗の検証では判明しなかった。全て──いや、全てだと思われる何かを知っているのは、本当は亜衣だけだった。
あの抜き打ちテストで空前絶後の十点台を取ってしまったショックであの日、亜衣は涙ぐんでいたのだ。悟られまいと密かに拭ったその手で作業に入り、同じ手で電池の極部に触れた。塩分を含んだ水は導電率が上がる。電池がショートした原因があるとしたら、亜衣に思い当たる節はそれしかないのである。
だからって、認めたいとも謝りたいとも、今さら思えなかった。
──私の失敗は大きすぎた。こんなのもう、挽回するには手遅れだ。私たちには、ここが限界だ……。
そう思い始めたのも、実際はここ数日来の話ではない。
この五人は、あのロボコンに挑むにはあまりに経験も知識も足りなかった。
多分……、そういうことなのだ。
「……ねぇ、ハルカ」
名を呼ばれた悠香は、声の主を振り返った。陽子だった。
陽子はきっぱりと割り切ったような表情で、言った。
「言いにくいんだけどさ……。止めようよ、もう」
悠香は眉を動かした。
「なんで?」
「なんでって……普通に考えなよ、あと三週間だよ? 三週間であたしたち素人に何ができるの? またあの日みたく、ロボットを燃え上がらせて終わっちゃうんじゃないの?」
「そんなの分かってるよ」
「分かってない」
「分かってる!」
「分かってないっ!」
ガンッ!
陽子は椅子を蹴飛ばした。
「分かってたらどうしてここまで適当にやってられるの⁉ 他のみんなだってそうだよ! アイはともかく、ナツミだってレイだって! 主体的な立場を期待するなら、自分から出てきて関われば良かったじゃん! 設計とか何とか肝心な部分は任せっきりでさ!」
「私、そんなつもりじゃ──!」
「じゃあ何なの⁉ そもそも聞くけどハルカ、今のあたしたちは何を目標に頑張ってるの⁉ まさかまだ倍率とか寝ぼけたこと言わないわよね? あたしたちの見据えるべき未来は何? 優勝? そんなの、初心者マークのあたしたちにできるわけがない!」
その言葉に、悠香の頭の中は真っ白に塗り潰された。
剣幕に負けたのではない。事ここに至って、悠香は自分が陽子の言うようなビジョンを失っていることにようやく気づかされたのだ。
はあ、と大げさ気味に陽子は息を吐き出した。ずっと知りたかった、聞きたかったことが、やっと声に出せた。けれど達成感なんてものは伴わない。
「答えられないの?」
陽子のだめ押しが、普段は喧騒で賑わう教室の温度をさらに数度下げた。
悠香は虚ろな目を上げ、他の四人を見つめる。空中で交錯する八本の視線の全てが、悠香の全身と重なっていた。
「……みんな、同じこと思ってる?」
ぽつりと悠香は言った。
どうしても聞いておきたかった。このあと、どんな展開になろうとも。
なぜならそれは、──このチームの“存在意義”に関わる問題だから。
「ぶっちゃけさ」
最初に口を開いたのは亜衣であった。
「私もヨーコと同意見なんだよね。ずっと前から私、分からなくなってたよ。どうして私たち、こう言っちゃなんだけどハルカの下についてるんだろうなって。──だってそうじゃん? 私たちがこの製作活動に携わる義務なんてないんだよ。ハルカの趣味って言い換えてもいいくらいだよ」
鼻息を荒げながら、亜衣は腰に手を当ててそう言った。亜衣の物言いにはいちいち遠慮がない。宙に散った言葉たちは鋭いトゲになって、悠香にぐさりぐさりと突き刺さる。
「ナツミは……?」
掠れた声で訊ねると、菜摘はぴくっと身体を震わせた。その目が悠香を見て、次に亜衣を見て、陽子を見て、最後にまた悠香に戻る。
やがて菜摘は、曖昧な笑みを浮かべた。
「……ごめん。私もアイと同じこと、考えてたかもしれない……」
四人中、少なくとも三人が同じ考えという訳か。
知らなかった。そんなにみんな、嫌々ながらの参加になっていただなんて。
どうして私、気づかなかったんだろう。悠香は唇を噛んだ。無理矢理に参加させる気なんて、悠香には微塵もなかったのだ。ただ、みんなで仲良く頑張っていければ、それでいいと思っていた。けれど現実には、それすら叶っていないなんて。
いや、それどころかそんなやる気のないメンバーに、悠香は実質的に戦力外扱いされていたのだ。
「そんなにやりたくなかったなら、言ってくれたら良かったのに……」
悠香はぼそっと口にした。すぐに陽子が反応し、怒りの声を上げる。
「言えるわけないでしょ! ハルカと違ってあたしたちはみんな、相手の気持ちを考えて喋ってんの! いくら嫌だったからって、面と向かって離縁状を突きつけるほどあたしたちは子供じゃないんだよ!」
「言ってくれなきゃ何も分からないよっ!」
叫んだ悠香の目は、赤く血走っていた。真っ直ぐに視線を受け止めた陽子の瞳の炎が、ほんの少しだけ形を崩した。
もう、何も信じられなかった。全員の今の気持ちを、自分の考えを、思いを。だったら好きなだけぶつけてくればいい。自暴自棄になっているのを分かっていながら、悠香は尚もまだ怒鳴った。
「私に言いたいことがあるなら、みんな言ってってよ! ほら、早く!」
完全なる、売り言葉だった。
「じゃあ、私から言わせてもらうよ」
つかつかと歩み寄ってきた亜衣は、高い身長で悠香を見下ろした。
「私はもう、ロボコンに何の魅力も感じない。そんなにやりたいなら、ハルカ独りでやれば?」
言うが早いか悠香のそばをすり抜け、亜衣はカバンを手に教室のドアをばたんと開けた。追従するように陽子も立ち上がり、軽蔑の隠った目で悠香を一瞥する。
「すっごく時間の無駄だったよ、お疲れさま! ──ほらナツミとレイも、行こ?」
それだけを言ってのけると、陽子もドアの向こうに消えていった。そこにまだ往来があるという確信でもあったのか、扉は開けっ放しだ。
悠香は、どさっと机の上に座り込んでしまった。
力を入れるという行為そのものが、腹立たしかった。視界を手のひらで覆ってしまうと、よりいっそう孤独な気分になれた。
「…………」
「…………」
しばらく黙ったままそこにいたらしい菜摘と麗の存在感も、いつしか身体の表面を離れていた。ふとした瞬間に目を開けた悠香の前には、もう誰も残ってはいなかった。
哀しいくらいに眩しい夕陽に照らされた、放課後五時の教室。
悠香は立ち上がると、並べられた二台のロボットのもとへと寄った。人型をしている訳ではないが、ロボットがじっと見ているように感じた。
「……ごめんね」
悠香はそっと、そのボディを撫でた。菜摘のパソコンがなければ、彼らには命を吹き込むことすらできない。無反応だからこそ、余計に淋しかった。
いつも通りの隠し場所──悠香のロッカーにロボットたちを押し込むと、悠香はガチャンと南京錠を下ろした。重たい音がした。
そしていつものようにカバンを手に、教室を出た。