034 四面楚歌の会議
翌月曜日の放課後、いつものように文科棟の教員会議室では定例教師会議が開かれていた。
その場は今日も険悪な雰囲気だった。信濃らによる提案があって以来、ずっとこんな様子だった。
「では、次の議案に行きましょうか」
小名木校長の言葉に、一斉に紙を捲る音がまた響き渡る。項目名は『先日のテストの結果について』とある。議案提案者の項に名を連ねている信濃が、すぐに立ち上がった。
「私からですね。先ほど完成したばかりのテストの結果資料を配布いたします。現時点までで採点及び集計が済んでいる教科のみになりますので、多少なりとも傾向への影響はあるかと思いますが、できる生徒はできている事を考えると、概ね現実を反映しているのではないかと思います」
その手に抱えた数十枚の紙を、信濃は円形に並べられた会議室の長机に二手に分けて配る。
そう、あの試験の結果である。恐る恐るそれを手にした浅野は、その先に予想通りの結末しかないのを見て、ああ、と投げ遣りなため息をついた。信濃はああ言ったが、普段は好成績を取ってくるような生徒までもが三割や四割の点数に沈んでいるではないか……。
「テストの事前予告がないというだけで、こんなに結果は変わるんです。いかに生徒たちが普段からの勉強を怠っているか、このデータがあれば一目瞭然ではありませんか?」
有無を言わせぬ口調でそう結論付けた信濃は、さっさと椅子に座る。教師たちの虚しい呼吸音がこだます部屋に残ったのは、何とも言えない濁った嫌味な空気感だけだった。ここまで明らかになってしまっては、もう生徒たちを庇う言葉の一つも浮かびそうになかった。
浅野は、胸の奥の危機感が次第に大きくなっていくのを感じていた。こんな空気のまま、この後に確実に待っているであろう『弾劾』を受けねばならない事への危機感だった。
言うまでもなく、物理実験室での件だ。先週の土曜日には学校に来ていなかった浅野は、その日起こった爆発事故の一件を今朝になって知らされた。あまりのショックに目眩がした。火の取り扱いには注意しろと以前にも注意したというのに、よりによって今度は爆発だなんて。
──物理実験室はもう使わせない事になったって言ってたけど、それだけでは済まないわよね。改革派の先生方には格好のエサだもん、きっと食い付いてくるはずよ。
浅野には確信めいたそんな思いがあった。そして、その予想は見事に当たったのである。
「次は、先日の事故についてですな。担当の先生、事情説明からお願いします」
校長の声を音頭に、物理課の主任教師が立ち上がった。
「はい。先週土曜日、つまり二日前ですが、中学三年の『ロボット研究会』のメンバー五人が、物理実験室で爆発を起こすという事故が起きました。消火作業の結果、火災には至りませんでしたが、備品のアルコールランプ十数点が損壊しました」
爆発の語を聞いた途端に、周囲の他の教師が騒ぎ出す。浅野にはその全てが非難の鏃となって、自分に向けられているように感じられた。
「現在、該当する生徒には物理実験室の使用禁止を言い渡しています」
そこで説明は終わった。当然だ、だとか色々と声が聞こえてくる。教室みたいにざわつく会議室に、校長の声が響く。
「今回議論すべきは、この生徒たちの処分です。知っていると思いますが、以前に校内で焚き火をした生徒には停学処分を下しました。同程度とすべきか、或いはそもそも処分を行うのかどうか。そういった点からの意見を、窺いたい」
予想に反して一瞬、間が空く。
そして最初に手を挙げた人物もまた、浅野の予想を裏切った。
指名されて立ち上がった高身長の男は、大河津清彦。高校一年δ(デルタ)組を担当する、英語課の若手教師だ。てっきり、信濃か千曲あたりだろうと目星をつけていたのに。
「厳とすべきではないですか」
そう言った大河津は、浅野を真っ直ぐ見下ろした。
「その『ロボット研究会』とやらの噂を先日、教室で偶然にも耳にしましてね。物理部の部員の連中が、実験室の使い方が悪いなど活動の邪魔になっている、というような話をしていたんです。物理課の教員に言おう、などとも漏らしておりましたし、事実関係を委細まで知らない私がとやかく言うことではないのかもしれませんが、事実だとしたら由々しき話ですな。ロボット部とやらは数週間前に設立された部活だそうじゃないですか。物理部の優先は当然、丁寧な使い方をして然るべきでしょうに」
「……は、はい」
咄嗟に浅野はしどろもどろな返事をしてしまう。そんな事まで介入する気は私にはないですよ、とも、それは事故とは別件の問題でしょう、とも言える空気ではなかったが、かといって謝るのも何か違うように思えたのだ。
大河津は大袈裟なため息を吐くと、椅子を引いた。
「さしずめ化けの皮が剥された、といったところでしょう。適当なことを繰り返しているから、そんな軽率な事故も起こるんです。ここで一度、きっちりした方が生徒たちのためかもしれませんよ」
何よりも悔しいのは、大河津の発言が必ずしも間違っていない事だった。庇う庇わない以前に、今回の件では悠香たちに絶対的な非がある。何を言われても、反論に根拠が伴わなくなってしまうのだ。
それをよくよく心得ているのだろう。信濃と千曲が揃って手を挙げた。
「大河津先生の仰有る通りです。物理課の先生方、実験室で危険行為を行わないというのはルールですか?」
「いえ、ルール以前に常識でしょう」
「皆さんも今のでお分かりではないですか? 今の生徒たちには、実験室での事故に気を配るくらいの常識も備わっていないんですよ。むしろ浮き彫りになったことを喜ぶべきです。そうした『現状』を生徒に思い知らせるのに、またとない機会となります」
「生徒への見せしめのためにも、最低でも停学処分以上の罰を検討すべきだと思いますが、皆さんは如何ですか」
表情こそ真顔だが、信濃の語り口はさも嬉しそうだった。自分の仮説が現実に追い付いてきた感覚が、恍惚に変換されているのだろう。
「何が適当だと考えるの?」
別の教師の問いかけに、千曲が答える。「停学より一つ上と言えば留年ですが、朱に交われば赤くなるとも言いますし、留年ではかえって中身が悪化するかも分かりません。ですからここは、思い切って退学処分ではどうかという結論で、信濃先生とは一致しています」
「た、退学……」
穏やかではないその単語を聞いた教師たちの間に、ざわめきが一気に拡大した。まるで死刑判決の選択を迫られた裁判員のようだ。
「そんなに厳しい罰、相応しいのか……?」
「相応しい相応しくないは、受けた生徒自身が考えればいいことです」
信濃は、群衆と化した教師たちをじろりと見回す。「我々はあくまで、禁を侵した生徒に黙って処分を下せばいいのです。退学だとか厳重注意だとか、中身など大した問題ではありません。『受けた』事そのものが生徒に反省を促します。その方が、結果的に生徒のためになるはずです。その点が甘いようでは────」
「……そのために」
浅野の言葉に、多くの教師が振り向いた。浅野の声は、それほどまでに低かった。
「そのために、『見せしめ』にする気なんですか」
信濃は自分に対しての質問であることが分からなかったかのように、惚けて瞼をぱちぱちと動かした。立ち上がったままのその背後に、ロボット研究会のあの五人の姿が見えているような気がした。『退学処分』の判決を突き付けられ、絶望的な表情になっている五人の顔が……。
「必要な犠牲だと思っていますから」
「犠牲……?」
「ええ。この学校が、この学校の生徒たちが、よりより未来を築くための────」
「ふざけんなッ!」
ばんっ!
響き渡る衝撃音!
机を渾身の力で殴ってから、はたと浅野は気付いた。しまった、つい激昂してしまった!
「どうなさったんですか? 退学処分ではいけないでしょうか?」
「冗談じゃないです!」
自制しかかった浅野だったが、他人事の口調で飄々と尋ねる信濃に、改めて怒りがめらめらと燃え上がった。こいつは処分によって生徒がどうなってしまうのかについて、何も意識を巡らせていないのだ。学校からの永久追放を意味する退学は、生徒の側からしてみれば裁判所の下す無期懲役判決にも等しい。人生を狂わす可能性すらも有す処分である退学を、厳重注意如きと一緒にするだと?
かくなる上は、机をぶっ叩いた勢いに乗るしかない。こんな考え無しの言う通りに、眼前でむざむざと悠香たちを退学にさせてなるものか!
「浅野先生、落ち着いて!」
校長の宥めにも応じず、浅野は吼えた。「退学がどういうものか分かった上で発言してるんですか⁉ もし分かっていないのなら、あなたは今すぐこの場での発言権を破棄して勉強し直すべきよ! 分かっているならますます言語道断、バカも休み休み言いなさいって言いたいところです!」
「先生、言葉が過ぎますよ!」
「出過ぎた真似をしようとするあなたたちには言われたくありませんね! あなたたちは生徒を利用しようとしているんでしょう! 生徒たちだって事故を起こそうと思って起こした訳じゃないはずです⁉ それだけで退学処分というだけでも不当な重罰だというのに、『受けた』事そのものが生徒に反省を促す⁉ 反省を活かす場を奪う審判を下していながら、どの口でそんな矛盾した弁を垂れる気ですか⁉」
はぁはぁと息を荒げながら、鋭い目付きで浅野は信濃を睨み付けた。この学校に来て五年、一部の生徒の前でしか見せたことのなかった怒りの勢いに、多くの教師らが呆気にとられて浅野を見ていた。
悠香たちに同情する気持ちがあるのは事実だ。だが客観的な視点に立ったとしても、こんなのは絶対におかしい。生徒をまるで政争の道具のようにしようとし、そのためには理念すら捻じ曲げる信濃や千曲の態度が、心底許せなかった。なんたる卑劣な、愚劣な行為。そんな理由で退学者が出るようでは、この学校にはますます人が寄り付かなくなるではないか。
すると。
「わざとじゃなかったら良いって訳でもないでしょう」
信濃の側に助け船を出したのは、大河津だった。「見せしめの効果を狙うにしても、退学処分ほどのモノを下す必要などない。ただ、そこまで行かなくとも、停学相当の罰は与えるべきでしょう。いいですか、これは一歩間違えば校舎が火だるまになっていたかもしれないような事故なんですよ。その場の感情論だけで動くのはどうかと思いますがね」
よもや彼もまた、信濃や千曲の仲間だったのか。ぎりりと歯を噛む浅野に、今度は水を得た魚の如く信濃が反論を始める。
「先生の仰有る通り、確かに退学処分というのは重すぎるかもしれません。ですが、何もしないという訳にはいかないでしょう。そもそも我々が見せしめとする事を望まなくたって、そういうゴシップめいた話というのは生徒たちの間で勝手に広まっていくものです。やがて生徒たちも、規則を破ればこうなるんだと自主的に悟るのではないですか? この学校が理想とするような、自分で考える力のある生徒ならば……」
ああ、それこそが私の怖れる事態だ、と浅野は思った。
浅野は憤るのと同じくらいに、怖かった。もし仮に何らかの処分を受けたとして、それで彼女たちの意欲が失せてしまったらどうするのか。誰が責任を取ってくれるのか。
せっかくやる気を出している生徒を、一度きりの失敗で摘んでしまいたくない。多少の無茶もできないような学校では、本来ならばここはないはずなのに。
「生徒を自由にするというのは、大人として扱うという事です。大人ならば相応の罰を受けます。ならば生徒も同様であるべきではないですか?」
信濃はもはや浅野に語りかけていなかった。数十人の教師が詰めているこの会議室全体が、今や再びこの学校の有りようを議論する場と化している。
「信濃先生、自重しなさい! だいたい生徒への自由を無くす方向に働きかけている君が、何を言うか!」
「自由な校風を廃するとしたら、退学処分以外には有り得ないと思います」
「その生徒の話はもう何でもいいでしょう。それより重要なのは、あなた方が非常に危険な思想を抱いている点です。禁則事項に抵触した生徒を排除すれば解決するなどとは、短絡思考も甚だしい! 子供はそうやって育てるモノではありませんよ」
「それは何か勘違いをなさっているのではないですか? 本質的には学校はあくまでも『学ばせる』機関であって、育てる場所ではないでしょう。もっとも、育てる事を学校に要求する馬鹿な親も多いですがね」
「信濃先生の仰有る通りです! 近年の不安定な社会情勢を見れば、私たち学校が属する生徒を安定した未来へと導く役割を果たさねばならないのは必定でしょう? だからこそ私たちはもう、生徒を自由にしてのびのびさせるなんて甘い事を言ってはいられないんですよ!」
「それくらいにしたまえっ!」
びくっ、と全員が校長を振り返った。
長方形状に並べられた机の一番向こうで、校長はじろりと教師たちを見渡した。
「それでも大人かね。今のこの場は、そんな答えの出ない議論に費やすために設けたのではありませんぞ」
「お言葉ですが校長──」
「千曲先生、それに信濃先生、いい加減にしなさい。その件は保留とする。いずれ、私なりの見解も言わせてもらう」
名指しで口を噤まされた二人は、遣る方無さそうな表情を滲ませつつも席についた。校長は次に、浅野にも目をやる。
「浅野先生、自分が顧問をする生徒たちを庇う気持ちは察するに余りありますが、ここは冷静になっていただきたい。誰が言ったか、ここは感情論を持ち出す場ではないですぞ」
「……申し訳ありません」
素直に浅野は謝った。抵抗しても、きっともう何も得られない。
校長は最後に、物理課の面々を見やる。
「私としては、やはり現場にいた当事者に判断を仰ぎたいと考えます。事故当時現場に居合わせ、消火作業にも従事した高梁先生。私の記憶が正しければ、物理実験室の管理担当も引き受けていらっしゃいましたな。皆さんはどう思われますか」
反対意見は、出なかった。
「それでは高梁先生。今回の件での生徒の処分についての見解をお聞きしたい」
ごくり。
息を呑む音が、沈黙の会議室の天井に幾つも跳ねていた。
当の高梁は資料から目を離し、校長よりもゆっくりと会議室全体を見た。その顔は、あんなに白熱していた会議室の中央にあって、驚くほどに真顔だった。
「……私は、現時点での処分は些か早計かつ不適当であるかと思います」