028 初めての失敗
「……ああ、もう四月かあ……新学年かあ……」
ソファで寝転んだまま友弥の溢した言葉に、物理の教科書をめくっていた悠香は反応した。「突然どうしたの?」
テレビのクイズ番組のオープニング曲が始まると同時に、友弥は身を起こした。少しだるそうに、答える。
「考えてもみろっての。俺、今日から高二なんだぜ」
そういえばそうだ。友弥は悠香の二歳年上なのである。
「もうそろそろ、本気で受験勉強始めなきゃいけない時期になるんだよ。場合によっては、むしろ遅いくらいだ」
「そうなの?」
悠香は首をかしげた。まだ二年もあるではないか。
対する友弥の顔は苦々しい。
「お前にも分かるようになる時が来るよ。高三にもなりゃクラスの半分くらいの奴らが、似合いもしない勉強をガリガリするようになるんだ」
「なんか恐い……」
それが受験だ、と言って友弥はテレビの画面に目を向けた。小学校三年生レベルの問題で派手につまづいた芸能人が、画面いっぱいに映し出されていた。
「なあ、悠香」
友弥はテレビに向かって語りかけた。それは画面で反射して、悠香の耳に届く。
「勉強は、早めに始めておいた方がいいぞ。出来なかった俺が言えたことじゃないとは思うんだけど、やっぱ先んじてスタートダッシュしておくことの効果は大きいからさ」
「うーん…………」
「悠香がどういう大学を目指すにしても、マジでこれだけは覚えとけ。受験勉強に限らず、勉学ってのはほぼ先手必勝の世界だからな。いや、努力の要るものは何だってそうだ」
そこまで言うと、振り返った悠香の顔を友弥はじっと見た。悠香は首を横に傾げて、「?」の意思表示をしてみる。
目線を落とし、友弥はため息を吐いた。
「……お前には、まだ分かんないよな……」
実際分からないのだからしょうがない。まだ中三になったばかりの悠香に、受験のことが近く感じられるはずがないのだ。
「私でも、いつかは分かる日が来るのかな」
ぽつりと呟くと、友弥は悠香を見もしないで答えた。
「ああ、間違いなくな。努力して結果を手にいれた経験があるなら、な」
暗に、ロボットの事を言っているのだろうか。
──まあ、いいや。
バラエティ番組に完全に見入っている友弥を目の端に入れながら、悠香もテレビへと意識を向けた。
大学受験レベルの高難易度問題をまぐれ当たりで解いた芸能人が、拍手喝采を浴びていた。
◆◆◆
「よし、これで終わり」
ハンダ鏝を手にした麗が立ち上がって汗をぬぐうと、陽子がカバーをぱちんと閉じた。改修完了だ。
「これでどのくらいの重さまで対応出来るんだっけ?」
亜衣が尋ねると、パソコンの画面を睨みながら菜摘は即答する。「電池は食うようになったけど、重さは変わってない。それより、高さが五メートル対応になったよ」
「やっと一台完成、だな」
陽子の言葉に全員が頷いた。これで、『積み木』を抱えた輸送ロボットを持ち上げ塔を作るための機構が出来たことになる。並行して輸送ロボットの作業もしているから、順調にいけば来週末くらいには練習を始められるだろう。
「とりあえず実験してみようよ!」
悠香の提案。「ホントにこれで機能するかどうか試してみないと、ダメじゃん? もしかしたら……なんてこともあるかもだよ」
「それもそうだな。ナツミ、電源いれて」
「あいよー」
「待ってよ、その前に机どけなきゃ!」
ばたばたと少女たちは立ち回り始める。自分も重い教壇を退けに回りながら、
ふと悠香は思った。
──なんかもう、私がリーダーじゃなくてもいい気がしてきたな。ヨーコの方がみんなを纏められてるし、アイちゃんの方がしっかりしてるし。元から私がやりたかった訳じゃないから、別にリーダーじゃなくなるのは構わないんだけど。
何だろう、この感覚。
教壇をずるずると引っ張りながら、悠香はぼんやりと外を見上げていた。
昨日友弥に言われたことが、どうにも頭に引っ掛かる。努力して結果を手にするというのは、この場合はどんなことになるのだろうか。やはり分かりやすいのは優勝か?
だとしたら、何がなんでも優勝しなければだ!
弱々しく一念発起した、その時。
「あれ」
「止まった」
亜衣と菜摘の声に、悠香は振り向いた。
いつの間にか悠香を放っておいて実験が始まっていたようだ。そして今、実験室の中央に確保されたスペースには、一歩も動かない輸送ロボットが佇んでいる。
「どうして……?」
亜衣が駆け寄ると、論理回路を覆うカバーを取り外した。
「どこも焼けたりはしてない。熱も持ってないし、故障っていう訳じゃないみたいだけど……」
「じゃあ、原因はもうちょっと分かりやすいってこと?」
いささかホッとしたような菜摘の言葉に、周りはみな頷いた。電子基盤の異状は考えられないとすると、原因は主に部品選びや回路の不完全さにあると見るべきだろう。それなら、部品の交換で対応出来るはずだと思ったのだ。
「モーターの出力不足ってことはない?」
部品カタログを手に陽子も近づくと、タイヤを引き出しモーターを露にした。型番はちゃんと製品に書いてある。
「インダクションモーター・シリーズ25。型番は合ってるし……」
「ここってどのくらいの強さのモーターが要るの?」
「『積み木』を持ったまま高速で走れないといけないから、かなりの高電圧仕様だよ」
亜衣はロッカーに走り、電気系統の設計図を持って来る。「おかしいな、計算上はここはこの強さで足りるんだけど……」
少し、声が震えている。
「いや、でもぜったいおかしいって。ちゃんと計算したのに動かないっていうのは、いくらなんでも変でしょ?」
誰も陽子に返事が出来ず、物理実験室は一瞬静けさに包まれた。
このチーム結成以来、今まで感じたことのない沈黙だった。自分が何か言った方がいいような気がして、でも何も思いつかなくて、悠香はおろおろするばかりだ。
──ああ、ここでリーダーらしく何か言えたらなぁ……。
「計算ミス、見つけた」
沈黙を破ったのは、設計図を手元に引き寄せていた麗だ。
亜衣が駆け寄る。「うそ⁉ ミスあった⁉」
「ここ。角速度の向きが逆になってるんじゃないかな」
「ほんとだ! 分母と分子を間違えてる!」
「だからほら、その後の計算がぜんぶ狂ってる」
「そんなぁ…………」
頭を抱える亜衣の横顔が、腕の陰に消える。ねえねえ、と悠香は陽子の脇をつついた。
「どういうこと?」
「分かんないのか……。ほら、角速度ってあったじゃん。一定時間毎に円の周上をぐるぐる回ってる点の動きの式」
「あったような……」
「その計算を逆にしてた。だから本来は必要な力が、数値が乱れたせいで色んな場所で足りなくなってるってことだよ。ったく、道理でおかしいわけね」
やれやれ、とでも言いたげに陽子は肩をすくめた。
その仕草が、気に障ったらしい。亜衣の顔が少し険しくなった。
「何よ、計算ミスくらい誰にだってあるじゃん!」
「そりゃそうだけど、お金が関わってくるんだからさ。ちゃんとやろうよ」
「私はちゃんとやったつもりだったの!」
「間違えてるじゃんか!」
「…………!」
二人は真っ向から睨みあった。バチバチと散る火花まで見えそうだった。
さっきよりもさらに、険悪な空気だ。
「ま、まぁまぁ……。つまりモーターを換えれば大丈夫なんでしょ? 」
この場で取り成せるのは自分しかいない。思い切って、悠香は間に割って入る。「明日、帰りに買ってこようよ。アイちゃんとレイちゃんは、急いで検算しちゃってくれない? ねっ、それでいいでしょ?」
「未だに角速度のことも覚えてないハルカの指図受けるのはなんか腹立つ」
「ねー。未だに毎朝遅刻のクセは治らないし」
ぐさぐさっ。
二本の矢を食らい、悠香はあえなく崩れ落ちた。今の二人に冷静になれという方が、なかなかに無茶な話なのである。
が、無茶だろうが何だろうが冷静になってもらわねば困る。その後ろから今度は菜摘が口を挟んだ。
「でもさ、ハルカの言う通りだって。もうそんなに時間はないんだし、効率的に物事は進めた方がいいよ。私も頭は悪いけど、手伝えることは手伝うからさ」
「私も」
そう続いたのは麗だった。
パソコンを本気で駆使すれば菜摘は無敵に近いし、麗のこのチームへの貢献度は既に極めて高い。張り詰めた二人の周りの空気が、その途端に少しだけ柔らかくなったように感じられた。
「……まぁ、二人が言うのももっともだよね」
足元と設計図を何度も見比べながら、ぽつりと亜衣は呟く。陽子も、微かに頷いた。
「起こっちゃったことは、仕方ないか。じゃああたし、明日代わりの手に入れてくるよ。今夜中に再計算、頼めない?」
「うん、やっとく」
ふっ。
その時初めて二人は、少し微笑んだ。
菜摘も麗も、笑っていた。笑っていないのは二本の矢が突き立ったままの悠香だけである。
──なんで? 仲直りを提案したの私なのに、なんでいつの間にかハブられてるの? しかもあれだけ言っといて、二人とも仲直りしてるし!
何だか猛烈に悔しいのだが、しょうがない。麗の言葉の方が説得力があるのは、悠香も認める点だ。
自分だけ損したような気分になりながら、再開した製作活動へと悠香も戻って行った。
この出来事が、後に大きな尾を引くことになる。
そんなことを、この時点で一体誰が予想できただろうか。
いや、予測は出来たのかもしれない。