023 変わった先輩
夕暮れ。
疎らな人の間をとぼとぼと独り歩いていた悠香は、自分を呼び止める声を聞いた。
「あら、玉川さんじゃない?」
振り返ると、その人はいつの間にかすぐ横まで追いついてきていた。悠香よりもだいぶ、背が高い。
「北上さん」
「久しぶり!」
物理部長、北上汐里であった。会うのはいつ以来だろう。確か、エントリーを決めたあの日だ。
スカートとジャケットがいい感じに着こなされていて、今日もその姿は色んな意味で眩しかった。表情の冴えない悠香の様子に、北上はすぐに何かを察したらしい。
「元気ないわねー。どうしたの? テスト悪かった?」
「物理と幾何だけはよかったんですけど……」
「そっか、化学とか生物とかは全然?」
「どっちも落第点取っちゃいました」
「難しいからねー、あの辺」
あははっ、と北上は笑う。その横顔を見上げるのが、悠香には辛い。
違う。難しいからではない。そうではなくて──、
「……ロボットにかかりっきりになってたら、試験勉強忘れちゃってて。ダメですよね、学生の本分を忘れてちゃ」
独り言の風味を漂わせてはいるが、その台詞は北上に答えを求めているかのようだった。勿論、意図して放ったセリフだ。
だが、北上は答えない。代わりに悠香に尋ね返してくる。
「──玉川さんは、ロボット作るの、楽しい?」
「はい。それはもう、すっごく」
「なら、よかった」
その声に、悠香は足元から視線を持ち上げた。
見上げた北上の顔はまだ、笑っている。優しい光を放つその目は、どこか遠い世界を見つめているみたいだった。
相変わらず、何を考えているのか全く分からない。
「北上さんはどうして、私たちに関わってくれるんですか?」
ふと、悠香はそう、口にした。
実はずっと気になっていたのだ。物理部長である北上がなぜ、悠香たち一般生徒に協力姿勢を見せてくれているのか。勝手に部の製作しているロボットを見せるなんて、本来ならばあってはならない事だろう。
「そうか、言っていなかったっけね」
一瞬目をぱちくりさせると、北上は二の句をつなぐ。「あなたたちが気に入ったからよ、個人的に」
──え、それだけ……?
「疑ってるでしょー。ホントよ、ホント」
ぷにっと頬を指でつつかれ、身体が少し揺れる。
それでもまだ、悠香には信じられなかった。そんなまさか、慈善団体じゃあるまいし。大体『個人的に気に入った』とは、どういう意味だ?
また視線を下ろすと、北上がぽつりと溢した言葉が地面にぶつかるのが見えた。
「……いい加減、正面から向き合うべきだとは、思っているんだけど。でも、せっかくこんなチャンスなんだもの。これを失ったら、私は、きっと……」
それ以上は、聞いてはいけない領域のような気がする。
悠香の感じた勘は、当たった。カバンからごそごそと財布を取り出しながら、北上は強引に話題を変えてきたのだ。
「玉川さん、喉乾かない? 何か飲む?」
「あ、いえ自分で買います」
「えー、そう? ……残念だなぁ……」
「すみませんやっぱり欲しいです!」
……はぁ。
北上に貰った缶ジュースの蓋に指をかけながら、悠香は橙に沈んだ西の空を見上げた。
実際のところ、相当に気が重かった。家に帰るのが本当に嫌だ。何せ、今日はカバンの中に爆弾を抱えているのである。それもその正体は『化学十九点』『生物十五点』という、戦略核弾頭並みの爆弾だ。
どうしてこんなに悪くなってしまったのか。冷静に分析するなら、一つにはこの日同時にあった試験が高得点狙いの現代文だったからだ。が、それが言い訳にならないことはさすがに悠香だって分かっている。
──問題は親なんだよなぁ。それと、ユウヤ。
去年、幾何かなにかのテストで十三点をとって帰った時の、友弥の小バカにしたような薄ら笑いを悠香は思い出していた。今も悠香の脳裏にエンブレムの如く刻み込まれている。もう二度とあんな顔をさせるもんか、そう決めたのはずだったのに。
考えてみると、これでは何だか他人のために頑張っているみたいだ。
──変なの……。勉強って、自分の為にやるものじゃなかったっけ。
分かんないよ、もう。もう一度ため息をつくと、悠香はちらっと北上の顔色を窺った。その顔に解決策でも書かれていないかと思ったのだが、駄目だ。何が可笑しいのか知らないが、缶コーヒーを片手に穏やかな笑顔を浮かべている。
──いいもん。所詮は家族で、他人だもん。私の事は私が一番知ってる。お父さんやお母さんなんかに、私の考え方が分かってたまるか!
……そんな風に考えてしまう自分にちょっと腹が立って、悠香は自分で自分の頭を軽く小突いた。
コツン、と軽い音が頭に響いた。
東中野駅から直線距離七キロの自宅への道のりは、まだまだ遠そうだった。
◆◆◆
その夜。
案の定、〔外出禁止令を喰らいました〕と題された菜摘名義のメールが、他の四人の元へと同時送信でやってきた。
〔塾は行かなくて済むことになったけど、親が勉強を見る気らしい。ぶっちゃけヤバい。人に見られながら勉強って気が散るから、全然出来なくて……。まぁ、そう言うわけでロボット当分手伝えないけど、宜しくね〕
実質的な自宅謹慎処分を受けたことを告白する菜摘に、返信する者は今のところいないようだ。悠香辺りは説教でも受けているのかもしれないが。
「しかし、やっぱりそうなるか……」
予想できた事態ではあったのだが。実際に喰らってみると、どうしようと思ってしまう。
やれやれとため息を吐き出した亜衣は、菜摘宛ての新規メールを起こし、画面の上で指を踊らせた。
〔つまり家にはいられるわけよね? なら、最悪の事態は避けられたかも。パソコンは頑張れば開けるんでしょ?〕
〔深夜に起き出したりすれば、出来なくはないけど〕
〔なら、やってもらうしかないよ。ナツミはとにかく半端なのでいいから設計図送って、あとは勉強頑張りなさい。私たちはその間に、リフトアップ機構の骨組みくらいは作っておくからさ〕
〔はい……〕
ふぅ、と安堵なのか疲れなのか分からない息を吹き出すと、亜衣はスマホを放り出した。
──これでもうこれから先、当分は大丈夫だよね。
そう思った。
が、このメールが残りの三人に全くの無断であったことを、亜衣は完全に失念していた。
「……って、昨日宣言しちゃったんだよね」
翌日。修了式が終わった後の教室で、集まった菜摘以外の三人に亜衣は言わざるを得なかった。
「えー、けっこう厳しくないー? オリジナルなんてまだ私たち、何一つ手掛けてみたことないんだし……」
「けど、時間がないのも事実だよ。二ヶ月って案外、あっという間に来ちゃうもんだしさ」
苦い表情の陽子に反論され、悠香は黙りこむ。
「でも、確かにリフトアップから手をつけるってのは悪くないかもね。輸送ロボットとか攻撃ロボットは機構も載せるモノも大変だけど、その点リフトアップロボットなら、駆動も複雑な仕組みも必要ないもの」
「私も、そう思った」
亜衣は二枚の紙を取り出した。小難しい線ばかりの図が描かれている。
「リフトアップ機構の設計図、出来てる部分だけ送ってもらった。既製品の部品だけで作れる範囲だとまだ二メートルしか持ち上げられないから改良が必要だけど、取りあえずやってみるのとやらないのとじゃ天と地ほどの違いがあるからさ」
「……仕方ない、やるか」
陽子の問いかけに麗と悠香は頷いた。でなければ、何も始まらない。
「部品の調達が最大の問題だね。粗大ごみ置き場に使えそうな部品があるかもしれないけど、そこで見当たらなかった奴は直接例のアキバの店に出向いて揃えるしかない。あたしは部活でそんなに時間とれないんだけど……ハルカ、それ出来る?」
不安だ。とてつもなく不安だったが、悠香はうんと言った。リーダーたるもの、一番大変な事を引き受けなきゃ。そんな思いが、働いたのだった。
「レイは、家から持ち出せる工具持ってきて。アイとあたしで、詳細な工程表作ろう。三日後に製作開始ね」
てきぱきと担当を決めていく陽子。四人はばらばらに頷いたのだった。
「これ、ぶっちゃけヨーコの方がリーダーっぽいな……」
ふと亜衣のこぼした言葉に、当の悠香は何も返せなかった。
ぶっちゃけ、悠香も思っていたことである。やっぱりリーダー、変わったほうがいいのだろうか。何だか少し、悲しくなる。
「……いやアイ、あたしリーダーは絶対に嫌だからね」
凹む悠香の背中に陽子の声が投げ掛けられた。否、その発言先は亜衣か。
「責任取るの嫌だもん。ハルカにやってもらわなきゃねー♪」
「──ヨーコっ!」




