『わたし』
すこし重い表現あります。いやな方は何もいわず回れ右!!
『わたし』に、名前はありません。
『わたし』の前の『私』には大層立派な名前と身分があったそうですが、奴隷に落ち、心も身体も汚れきった『わたし』に『私』の名前は必要ないと、『私』の名前は『わたし』の中から粉々に砕けて捨てられてしまったので、『わたし』は普段『17番』と呼ばれています。
そんな『わたし』の旦那様、つまり『わたし』の飼い主であるひとはとてもおこりんぼで、とても怖い人です。
今も、旦那様は床にうずくまる『わたし』を何度も蹴飛ばしては大声で怒鳴っているのです。
わたしは蹴飛ばされるたびに壁や床に叩きつけられ、きれいな花瓶や壁紙がはがれてしまっているのですが、旦那様はそんなことを頓着せずに『わたし』の髪を引っつかんで転がし、また蹴飛ばしているのです。あ、髪がまた抜けました。痛みはともかく、禿げるのは勘弁してほしいのですけれどねえ。
確かに『わたし』はがりがりに痩せてますのでだいぶ軽いでしょうが、それなりに大きいのでそうひょいひょいと動かせるものではないと思ってはいるものの、旦那様はおおきな身体に似合いの腕力を持っているのでしょう。
裸に首輪だけをつけた『わたし』の身体はあちこち擦り切れたり脱臼したり骨折したりしているのですけれど、旦那様はお構いなしなので、後で呼ばれる医者の人がまた大騒ぎしながら『わたし』を修理する羽目になるでしょう。
旦那様はその男らしく端正な顔を真っ赤に染めて、ぼんやりと見上げる『わたし』を鬼のように青筋をたてて蹴り上げました。
腹に思い切り入った所為で空っぽの胃から胃液がでてきて、のどが焼けてひゅうひゅうと痛みます。
すこし、血も出たようです。
ああ、ようやく旦那様の蹴りがなくなりました。これですこしは休めますね。
まぶたも腫れて狭まった視界に、ぎゅっとしわがよった眉間がうつる。旦那様の、苦渋に満ちた顔を見るたび、どうしてそんなことをするのかと思うし、口に出そうとも思うだが、薄れゆく意識に引きずられて、結局表にあらわれることは無い。
最後の最後、意識がなくなる寸前に痛むほど力強く、熱いほどの体温が『わたし』を包み込んで、いっそ、懺悔かとおもうような声が、耳に届く。
「……『 』様」
それは『私』であって『わたし』の名前ではなく、以前の『私』だったころのカケラ。
その声を聞くたびに、目じりからこぼれる水滴も、心臓の奥が切り裂かれるような痛みに襲われるのも、すべては旦那様の暴力がやんでも尚痛むからだが安堵して反応する、ただの生理現象なのです。
だって『わたし』は、『私』の姿かたちをした、ただの『オニンギョウ』なのですから。
心なんてそんな不確かで、曖昧で、見えもしない、触ることができないものなど無い、『サクヒン』で、『インラン』で、『カラッポ』な『アイガンニンギョウ』なのですから。
そう。ちゃんと、覚えていなくてはいけません。
『ニンギョウ』が、何かを望むなんてこと、ありえないのです。
優しい手に撫でられる髪の感触も、頬を滑る指先も、額におちる口付けも、震える声も、全部全部、『わたし』じゃなくて、『私』に与えられるはずだったものなのですよ。
旦那様は、『私』を望んでいたけれど、『私』は砕かれて『わたし』しか残っていなかったから、仕方なく『わたし』を買ってくれただけで、本当ならここにいるのは『私』なのです。
だから、『わたし』は『私』になりたくても『私』にはどうしてもなれませんので、旦那様は『わたし』をたくさん殴りますが、それは『私』になれない『わたし』に苛立っているだけなので、それはつまり『わたし』の出来が悪いから『わたし』の所為なのです。
だって、『わたし』が目を閉じてゆるやかな眠りにおちるとき、旦那様はとびっきりに優しい声で『私』の名前を幾度も呼びながら『わたし』を抱いてくれるから、旦那様は本当は『私』が欲しくて欲しくてたまらないのに、目を覚ますと『わたし』になってしまうから、その落差に耐え切れなくて私に暴力を振るってしまわれて、そしてまた懺悔の繰り返し。
旦那様が住んでいる、おおきなおおきなお屋敷の誰かが言っていました。
『若様、せっかく『 』様を見つけたのにねえ……』
『しょうがないわよ。見つけたときは全部の記憶が消えていたのでしょう?……それにあの傷……』
『それにしたって……せめて恋人の顔くらい覚えているべきでしょう!?』
『しっ!!声が大きいわよ。一番つらいのは若様なのだから、ね?』
『……ええ、そうね。まったく、若様も、寝る間を惜しんで必死に探し出した恋人がこんなに薄情だったなんて、かわいそうだわ』
『まあ、それはそうだけど……。っと、そろそろ戻らないとメイド長に怒られちゃうわ。行きましょう』
『あら、なら急ぎましょう』
ぱたぱたと去っていく音を、柔らかな絨毯の上で寝転がりながら、『わたし』は初めて、自分の耳が消えてなくなってしまえばいいと、初めて思いました。
結局誰も彼も、『わたし』ではなく『私』を選び、求め、望み、愛し、見ていることを。
……ずっとずっと優しくしてくれた旦那様が豹変したあの夜から、なぜ『わたし』しか残っていないのかと罵る彼の憤怒に満ちた、泣きそうな瞳から、
知って、しまったのです。
だから、『わたし』は『私』になりましょう。
誰も気づかないように『わたし』を小さな小さなかごに閉じ込めて、大事にしまっておいた心の箱を開けて、『私』を作りましょう。
大丈夫、いつだって『わたし』は望まれるまま『私』を作れた。
壊れて、砕けて、ばらばらになっても『私』のたくさんのカケラは『わたし』の奥底でゆっくりと型にはめて、つないで、大事に保管してきたから。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
『わたし』は『私』になれる。
『わたし』は奥底でおびえて、耳を塞いでいる『私』と交代すればいいだけだもの。
ほら、顔を上げて、『私』。
もう怖いことも苦しいこともつらいことも無いよ。
『私』が目覚めたら誰も『私』を傷つけないし悪口も言わない。
今度はもう『わたし』に交代しなくていいくらい、強い人が守ってくれる。
だからね。
もう、悪夢はなくなったから、全部全部忘れて、目を開けていいんだよ。
ばいばい、『私』。
『わたし』が二度とおきないくらい、しあわせになってね。