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鳥の声が聞える。俺は重く閉じた目を開くと、眩しすぎる木漏れ日に顔を顰めた。
ここは何処だ? 地面に寝転がったまま辺りを見回す。何かとてつもないことが自分の身に起こったような気がする。いや、これは夢だ。もう一度、ぎゅっと目を瞑る。次に目を開けた時、きっと俺は安宿のベッドの中で目覚めるに違いない。きっとそうだ。俺はゾンビになんかなっていない。夕べ起こったことは全て夢だ。
「起きたのか? 気分はどうだ、デビィ」
誰だ? 誰の声だ? 俺は近付いてくる足音を無視して眠ったフリをする。
「デビィ、おい! 大丈夫か?」
ひやりとした掌が俺の頬に触れた。少しだけ目を開けてみると、レイは本当に心配そうな顔で俺の顔を見つめている。まったく男であることが間違いじゃないかと思えるほど綺麗な顔だ。考えてみれば、これから毎日、こいつの顔を見て目覚めるんだ。醜いよりは美しい方が目覚めもよさそうだ。仕方がない。もう現実を無視するのは止めよう。
「ああ、大丈夫だ。気分は最悪だけどね」
俺が起き上がると、レイは手近な木の根元に腰を下ろした。彼の右腕はすでに傷口が塞がり、新しい肉が盛り上がってきていて切断面の周りの血管が波打つように動いている。再生が始まっているようだ。俺が見ているとレイは素早く腕を後ろに回し、とてもバツが悪そうな顔をした。
「あまり見ないでくれよ。気持ちのいいものじゃないしね」
早く森を抜けて街へ行きたかったが、レイの腕がこの状態では無理だ。俺はリュックに押し込んだGジャンを忘れてきたことをつくづく悔やんだ。今頃は灰になって影も形もないだろう。
「ああ……これじゃあ、俺は行けないな。デビィ、俺を置いてこの森を出るんだ」
「それは駄目だ。お前には俺の面倒を見る責任があるんだ。そうじゃねえか?」
レイは俺の顔を見て苦笑した。
「そうだったな。でも、このままじゃ……」
「ようするにその動いてる肉が見えなきゃいいんだろ?」
俺はTシャツを脱ぐと一気に引き裂いた。
「おい! デビィ、何を……」
レイの傷ついた右腕をそっと掴み、細く裂けたTシャツの布でぐるぐる巻きにする。即席の包帯だ。
「これでいい。少しは目立たないだろう?」
「あ、ああ。でも、お前の服が……」
「気にすんな。夏だし、却ってこのほうが気持ちいい」
俺はレイの横に座り込み、目を瞑った。何だかとんでもない二日間だった。ヴァンパイアとの出会い、ハンターとの戦い、ゾンビの襲撃による大量殺戮。これから俺はどうなるんだろう。家に帰れる日は来るんだろうか。
「なあ、レイ。お前を探していた長い銀髪の男がいたけれど、あれがジェイクなのか?」
レイの顔が一瞬、強張った。
「銀髪……そいつの眼の色は金属みたいな銀色だったか?」
「ああ、そうだ」
「そいつはジェイクじゃない。ディックって奴だ」
「ああ、違うのか。なんだかずいぶん横柄な奴だったぞ」
「奴に舌はあったか?」
「え? そりゃあるだろう。喋ってたんだから……で、何でそんなことを」
レイはすっと立ち上がって土を払い落とした。
「あいつはジェイクの右腕でね。俺は昔、あいつに襲われてレイプされかけたんだ」
「なんだって!」
「押し倒されて無理やりディープ・キスされた。だから俺はあいつの舌を思い切り噛み千切ってやったのさ」
レイはそう言いながら俺の顔を見下ろし、にやりと笑った。なるほど。だからあの男、ディックは俺が聞いたことに腹を立てたのか。
「今、ちょっとだけ変な想像しなかったか? デビィ」
「な……なんだよ! してねえよ!」
いや、実を言えば、一瞬だけディックに組み敷かれているレイの図を想像してしまったのだが。
「まあ、もう過去の話はよそう。ブラッドウッドの本家にいた時は嫌なことばかりだったしね」
「それより、レイ。夕べのことは黙っていてもいいんだろうか。実際、何百人もの人間が死んでるんだぞ」
「ああ、あのゾンビ共もおそらく途中で通った街の連中だろうしな。でもな、デビィ。相手が軍じゃ話にならないよ。それに軍とは別の裏組織も関わっているようだし。マスコミに垂れ込むっていう手もあるかもしれないが、そうなるとお前の身が危なくなる」
「危なくなるって……」
「ゾンビ・ウィルスに感染したものは全て抹殺する。確かそういう決まりがあったんじゃなかったか?」
頭を殴られたような気がした。そうだ。その通りだ。俺はもう人間じゃない。
「まあ、お前の場合は俺の血でウイルスが変化しているから、感染力があるかどうかは分からないけれどね。お前の正義感も分かるけれど、それより今は自分自身の身を守ることを考えろ」
「そうだな。とりあえずはここを出て、食い物にありつくことだな」
食い物……そう、もちろん『普通の』食い物だ。また食人衝動が起きなければいいんだが。
「そろそろ行こうか」
「ああ、そうだね」
レイは木の根元に立てかけてあった剣を取り上げると、両手で顔の高さまで持ち上げた。
「これはいい剣だな。デビィ、よく見てみろよ」
改めて見てみると、グリップの部分もしっかりと作られているし、柄頭は六角形で十字架が描かれ、その中心に小さなエメラルドが埋め込まれている。
「それに、この鞘もぴったりなサイズだ。デザインから見てもこの剣の鞘だろう。恐らく、あの女は俺達より先にあのレストランへ寄っていたんだ。どうして鞘だけを置いていったんだろうな」
なるほど。黒い鞘にも同じ十字架のマークがある。
「ああ、そういえば変だな。あの女主人もばかに剣を気にしてたみたいだし」
「恐らく、あの女、エメラルドは女主人にあの鞘を預けて、剥きだしの剣を持った男が来たら連絡するように頼んでいたのかもしれない。少なくともあそこを通れば、俺達がどっちの方向へ向かっているのかが分かるしね」
「そうか。でも、なぜ鞘をくれたのかな? あの女主人は」
「この剣はかなり手入れが行き届いている。刀身を剥きだしで持ち歩けば傷が付くじゃないか。鞘を渡すことも、あらかじめ頼んであったんだろうな」
ということは、あの女は俺達と同じ方角に先回りしているかもしれない。
「いずれにしても、もう道を戻ることは出来ないしね。十分気をつけて行かなくちゃな、デビィ」
俺達は森を抜け、広いトウモロコシ畑を横切る道路に沿って進んでいた。相変らず通る車は少ないし合図を送っても逃げられてしまう。まあ、上半身裸で剣を差した男と、腕に包帯を巻いた男という怪しすぎる組み合わせじゃあ乗せるほうがおかしいかもしれないが。レイは雲ひとつない空を見上げて鼻をひくつかせている。
「風の匂いが変わってきた。嵐になるぞ、デビィ」
「嘘つけよ。こんなにいい天気じゃないか」
だが、十分とたたないうちに黒雲が湧き上がり、風が生暖かく変化してきた。
「こりゃあ、まずいな。早く車を捕まえなくちゃ」
俺は一台の車が近付いてきているのに気がつき、腰の剣を抜いて振り回した。もう、ほとんどヤケクソだった。
「おおい、停まってくれ!」
車はトヨタの大型のランドクルーザーだった。シルバーグレーの車はいったん俺達の前を通り過ぎたが、その時運転席の男が鋭い眼差しで俺のほうを見た。こりゃ駄目だなと思った途端、ランドクルーザーはゆっくりと停車した。
「おい、そこの二人。お前らはハンターか?」
「ああ、そうだ」
「だったら、乗れよ。俺は次の街まで帰るところだから、そこまでなら乗せてってやるよ」
「ああ、すまないな。お願いするよ」
俺はレイの手を引っ張って後部座席に乗り込んだ。だが、乗った途端に後悔した。後ろの荷台にはニードルガンやショットガンが何丁か積まれている。こいつはハンターだ。
レイはぎゅっと唇を噛み締めて、前の座席を睨みつけている。俺はレイの耳元でそっと囁いた。
「すまない、レイ。でも次の街までだから我慢してくれ」
レイは小さく頷いて窓の外に視線を逸らした。男が座席の間から身を乗り出してきて、にやっと笑う。ダークブラウンの髪を肩まで伸ばし、無精髭を生やした男は三十歳くらいだろうか。首にはこの暑いのに青いバンダナをきつく巻いている。男はでかいドクロの書かれた黒のTシャツから伸びた傷だらけの腕を俺のほうへ差し出してきた。
「俺はアンディ。アンディ・バーンズだ。よろしくな」
「ああ、俺はデビィだ。よろしく」
俺がしぶしぶ握手すると、今度はレイのほうへ手を伸ばしたが、レイは知らん顔で窓の外を眺めている。
「おやおや。あんたの美形のお連れさんは無愛想だな」
アンディは苦笑し、差し出した手で頭を掻いた。瞳の色は青緑色で、ハンターらしからぬ人懐こい優しさを湛えている。だが、俺は何故かこの顔に見覚えがあるような気がした。
「ああ。こいつはレイ。人見知りする性格なんだ。すまない」
「いや。いいんだ。ところで、あんた達も例のヴァンパイア探しに参加したのか?」
「ああ、まあ、そうだ」
「凄い数のハンターだったろ? あそこではハンター組織の集会もあったらしい。そういえば、最近のハンター映画の影響らしいが、時代錯誤のコスプレハンターも多いって聞いたが、そうなのか?」
「確かにな。あんな服装じゃ動きにくそうだけどな」
「まあ、奴らだって剣だけで戦ってるわけじゃないしな。今は対ヴァンパイア用にいろいろな武器がある。生き残ってるヴァンパイア共は戦々恐々だろうよ」
レイの眉がぴくり、と動いた。
「まだヴァンパイア探しは終わってないらしいが、もうとっくにヴァンパイアは蘇って、森から逃げ出したって噂もあるぜ」
こいつはやばい。もうそんな噂が立っているのか。
「そいつは知らなかったな。逃げ出したってどうやって?」
「さあな。たぶん自分を見つけたハンターを殺して逃げたんだろうな。まあ、噂だからどうか分からないが、本当だとしても遅かれ早かれ狩られるさ」
よかった。たぶん、独占欲の強そうなあの女ハンターは俺達のことは仲間にしか喋っていないんだろう。
「ところでお前の持ち物はその剣だけか? 追い剥ぎにでもあったのか?」
「まあな。……夕べ泊まった安宿で一緒にいた連中に持ち物を盗まれたんだ。幸い身につけてた金だけは無事だったけどね。情けない話だよ」
アンディはレイの腕にちらりと目をやった。
「いろいろと訳ありみたいだな。もうこれ以上詮索はしないから安心しな。街までは一時間くらいだ」
突然、けたたましい雨音が聞こえ始めた。地面を貫くように稲妻が走り、雷鳴が轟く。嵐がやってきたのだ。アンディは顔を引っ込め、エンジンをかけた。と、同時にラジオのスイッチが入ったのか、雨の音に負けじとクイーンの『ウィ・ウィル・ロック・ユー』が車内に響きだした。
「……我慢できないのか……駄目だ。いいか、絶対に外に出るなよ。俺が帰るまで待っていてくれ」
俺はいつの間にかうとうとしていたらしい。アンディは何処かに電話を掛けているようだ。我慢できないっていったいなんだ。まあ、俺には関係のないことだが。眠い。街はまだ遠いのだろうか。




