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◆氷の仮面 ep3/ep4

〈ep.3〉


 身を縮める灰色の朝。冷えたプラットホーム。

普段は静かな駅が今朝は人で溢れ返っている。

電光掲示板には『ただ今、南水菜原駅にて六時四十分頃に発生した人身事故のため運転を見合わせております』の文字が繰り返し流されている。

右から左に流れていくその文に僕は心の中でガッツポーズ。

学校で過ごす時間が短くなる。嬉しい。

今日の気温がすばらしく寒いというのが玉に瑕だけど、でも、学校で嫌な気分になるよりも寒い場所にいる方がずっと楽だ。

ラッキー。

僕は鞄を下ろして電車を待つことにした。

 隣に立っている天野はあまり嬉しくなさそうだ。何故だろう。学校に行きたかったのだろうか。いいや、そんなはずはない。

……何故だろう。訊いてみるのがはやい気がする。でも天野は本を読んでいるので、邪魔はしたくない。黙っているべきだろうか。

結局、同級生に読書の邪魔をされた時のことを思い出して、僕は彼女に声をかけることをやめた。

そして、先日ここで彼女と出会った時のことを思い出して、僕は喜ぶことをやめた。

 電車は止まったんじゃなくて止められた。それに気付いたから。

 この電車を止めたのは、誰か。

それは僕ではない。天野でもない。誰か。

それは名前も知らない仲間。

駅舎の屋根の隙間から、白くて何もない空を見上げた。何もなかった。ひどい気分になった。

 僕らは死んだら死体になる。それ以上でも以下でもない。死体は何も感じない。それは寒い今よりは確かにマシなのかもしれない。

 もう長い付き合いになるこの傷だらけで罅だらけの仮面。この氷の仮面が砕けた時、僕は死にたいと願うのだろう。

僕は黙って線路に手を合わせた。



<ep4.>


 ある朝、事故とは別の朝、学校に行ったら、黒板の前に人が集まっているのが見えた。

開いていた扉から教室に入って、自分の席を目指そうとしたら、クラスメイトに指をさされて名前を呼ばれた。すでに教室には少なくない数の生徒がいて、それらの生徒が皆こちらを見ていた。


 公開処刑、だった。


 天野が僕のうちに泊まっていることがばれてしまった。


 同棲がばれたことをきっかけに、僕や天野に対するイタズラの数がぐっと増えた。

そして僕はなぜか、驚くほど些細なことに対してもどんどん傷ついていった。

私物を隠したり目の前で悪口を言ったり、といったくだらないイタズラがほとんどだった。しかし、そんな小学生レベルのイタズラが、亀裂だらけで溶けかけの氷の仮面をどんどん砕いていったのだった。

 長い間痛みを無視してきた肌に傷が入ってゆく。

活発な人の足の裏と、僕の足の裏の違いだ、と思った。痛みに慣れた硬い皮膚と、引きこもって歩かない弱い皮。僕の足は授業中の五分バスケでも皮が剥ける。鍛えられていない弱い皮膚。

氷の仮面なんか作らなければ、こんなに痛い思いはしなかったのかもしれない。

氷の仮面なんか元からなければ、硬くなった皮膚が僕を守ってくれたのかもしれない。

でも、残念ながら僕はそんなにたくましくなかった。貧弱でもやしでキモい人間だった。盾がなくちゃ身を守れない脆弱な人間だった。

 ハズレくじ。その通りだ。

みんなは僕を忌み嫌う。僕の人生自体もハズレくじ。ろくな事が起こらない。

でもこれは必然。運命を呪うことすらバカバカしい。僕にとってはこれが普通なんだから。

「あれ…………」

 ずずっ、と音がした。自分だった。

「なんでだろ……」

 いつもなら、ジョーカーだと唱えてさえいれば気持ちは安らかだったのに。静かな水たまりになれたのに。

水面の波紋が、張りつめてはちきれそうな心を容赦なく揺らしている。

 僕を守っていたはずの氷の仮面は、天野との生ぬるい日々で溶けてしまっていた。

「ダメだ……あああ、ははっ」

 溶けてしまっていたんだ。

ぽろぽろと水面が荒れ始める。雨みたいに。

 僕に、人との関わりを楽しむ権利なんか、なかった。

僕は所詮ハズレくじ。ジョーカー。みんなの鼻つまみもの。僕は嫌われ、追い払われる存在。

そして、僕を守る仮面は、もうここにはない。

もう嫌だ。どこか遠くへ。果てて果てに消えてしまいたい。

 僕は立ち上がって歩きだした。あそこへ行こう。部屋を出る。

アスファルトには枯れ葉ばかりがあって、地面にはロゼッタになったタンポポがへなへなと伏していた。蟻の一匹も見あたらない道。沈黙するタバコの吸い殻が落ちていた。


 歩いていたら、何かにぶつかった。

「すみません」

 顔を上げたら首が痛かった。

そこにあったのは灰色の電柱だった。

ひどい気分だ。

僕は、重力のようなものに従って灰色の空から灰色のアスファルトに目を戻した。



 階段を上る。一段いちだんが重たい。

冷たい空気が侵入してくる。はっきり言って辛い。

 上りきった。電光掲示板が示す時刻は六時を回っている。

ベンチに近づき、座る。ずるずる沈む。灯り始めた蛍光灯に蛾が縋っていた。

正の光走性、だっけ、と、変なことを思い出す。

嘘。偽の太陽に体当たりする本能。半永久な苦しみ。だから僕は今すぐにでもその蛾を殺してやりたかった。でも武器を持っていなかったから諦めた。

本音。生き残るためのシステムなんか嫌いだ。死ね、死ね、死ね、死んでしまえ死んでくれ。


 生きようとして死んでゆく蛾を眺めていた。

蛾は、もうだいぶ弱ってきているようで羽ばたきもゆっくりだ。

 黄色くなった各駅停車がのろのろと滑り込んできて、ホームに収まり、口を開けて、吐いて、吸って、口を閉じて、去ってゆく。

次も各駅停車。

その次が通過。急行電車だ。

 普段は使わない携帯電話がふるえたのはそんな時だった。

「うおう……びっくりした……」

 意外と派手に震えるものなんだな。そう思いながら開けてみると、天野からの電話だった。

通話キーをプッシュ。

「もし」

『もしー。あ、わたし。今、どこにいる? 家のカギ、開いてたよ』

 向こうは家にいるらしく、騒音がない。

「駅」

『……』

 たった二文字で、天野は察したようだった。

 蛾が落ちてきた。コロリ、あっけない。

ひっくり返って、動かない。

天野が黙るので、僕が口を開いた。

「天野も来る?」

 ちょっとして、返事。

『…………行く。行くから、待ってて』

「わかった」

 会話が終了して、電話を切れない僕らはしばし膠着した。天野が十秒ぐらい待って電話を切った。早い。急いで来るつもりかもしれないと思った。

 各駅停車が走り去った。

よし。

ベンチから立ち上がり、歩く。点字ブロックの先へ。

途中、あの蛾を踏みつぶしたことにも気づかずに。



 かんかんかんかんと、階段を上ってくる音が響いていた。そして。

「間に合った!」

 天野がホームにやってきたのだ。

重たい体で振り返ると、階段を上りきった場所に天野が膝に両手を乗せて肩で息をしながら立っていた。

 僕は少し距離が開いていたから、大きめの声を出した。

「間に合ってないよ」

 息継ぎ。

「急行を二回見送った」

 各駅停車と回送も含めたら五本にはなる。

 天野はぜえはあ言いながら、

「でも、生き、てる」

 と。

それから、

「帰ろ、とりあえ、ず、さ」

 と。

彼女の目に見据えられて、意志の弱い僕はそれを振り払うことができなかった。

ここでも、怯え。

天野に対して、ではなく、人間関係への、怯え。

溶けてゆく仮面をぬるい手で握り締めながら、僕らは帰宅した。



 コンロで、お湯を沸かしている。

些細な振動でも何かがはちきれてしまいそうな、そんな気がして僕は、火をつけた姿勢から動けていない。

 天野は居間とも呼べないあの四畳半にいるようだった。音はしない。きっと座っているのだろう。

 換気扇を回していなかったことに気づいてスイッチを入れた。フーンと小さな低い音が鳴り出す。

規則的に震える小さな音に、ずっとこの場所を支配していて欲しいと思った。

やがて湯は沸き、換気扇は止めるのに。



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