「喪中の幼馴染を一人にしておけない」と夫が言うたびに、結婚祝いを一つずつ贈り主へお返ししています
「すまない、ノエミ。ラウラを一人にしておけない。あの人はまだ喪中なんだ」
玄関の広間で、夫のエンリコ様は、灰色の縁取りの便箋を握ってそう言った。
私はもう外套を着て、手袋をはめ終えたところだった。表には馬車が回してあって、今夜はフォスカリ家の春の夜会に、夫婦で招かれている。
「かしこまりました。フォスカリ家には、欠礼のお使いを出しておきます」
それから、私は執事のほうを向いた。
「フィリッポ。祝いの目録を持ってきてちょうだい」
エンリコ様は聞いていなかった。もう扉の外で、御者に行き先を告げていた。モンティ男爵夫人のお宅へ。この一年で、御者も道を覚えてしまった。
馬車の音が遠ざかると、侍女のピアが、私の外套を黙って脱がせてくれた。ピアは私がリヴェラの家から連れてきた娘で、夜会のために私の髪を一時間かけて結い上げてくれていた。その髪を、今度はほどかなければならない。
「もったいのうございます」
「寝るまでは、このままにしておくわ。せっかくだもの」
婚礼から、一年と四日になる。
婚礼のあとの披露の宴で、新郎は三度、席を立った。三度とも、行き先は庭だった。喪服の幼馴染が、庭の東屋で泣いていたからだ。ラウラ様は、親の決めた二十も年上の男爵に嫁ぎ、私たちの婚礼の半年前に夫を亡くしている。夫を亡くした妻の喪は二年だから、ラウラ様の喪は、まだ半年ほど残っている。エンリコ様の初恋の人だと、私は宴の翌日に知った。
婚礼の晩も、夫が寝室に戻ったのは夜明けだった。
それから一年、灰色の縁取りの便箋が届くたびに、夫は出ていった。便箋の文面は、いつも短い。今夜は一人でいられないの、エンリコ。ラウラ。夜会の晩も、観劇の晩も、私の父が王都に出てきて晩餐を共にするはずだった晩も、便箋は同じ時刻に届いた。戻るのは、いつも夜明けだ。
フィリッポが、革の表紙の目録を持ってきた。
祝いの品は、二十四点ある。どれも祝いの間の飾り棚に並んでいて、宴の晩にいただいた二十三点には、どれにも「ご夫妻へ」と添え状が付いていた。銀の杯、刺繍の卓布、燭台、花瓶、香水瓶、銀の塩入れ、銀の茶器。宴のあいだ、新郎のいない席で、私はそれを一つずつ受け取り、一人でお礼を言った。末永くお幸せに、と言われるたびに、ありがとうございます、と答えた。嘘をついている気がして、あの晩は少しも眠れなかった。
この国では、離縁したら、祝いは贈り主へお返しする。離縁返しといって、祝っていただいた婚姻がなくなりました、というご挨拶だ。
だったら、夫婦でなかった晩の分は、先にお返ししておくのが筋だろう。
一年、待ってみた。待っても、筋は変わらなかった。
(今夜から、そうしましょう)
目録は、贈り主の格の順に書いてある。一行目は代母のガッリ公爵夫人、二行目は夫の叔父のコルシ侯爵。お二人とも、私たちの婚姻の証人として、典礼院の届けに署名してくださった方だ。いきなり上から返せば、家どうしの騒ぎになる。下から返していけば、夫が改めるなら途中で止められる。
最後の行だけ、字の色が少し違った。宴の三日後に届いて、フィリッポが書き足した品だ。
ラニエリ侯爵より、チェス盤一揃い。
添え状は、夫婦宛てではなかった。サルヴィ家のノエミ殿へ。再戦を。
あの宴で、新郎の空いた席を詰めて卓を回っていたとき、三つ目の卓にいたのが、海軍の提督だった。リヴェラの艦隊の長で、父の倉から帆布を買ってくださる方だ。広間の隅には、年配の客の手慰みに盤が置いてあって、提督は父から娘はチェスが強いと聞いたと言い、一局だけと私を座らせた。二十手で、私が勝った。提督は何も言わずに駒を並べ直し、一礼して席に戻った。それきりだった。
「ピア、これを包んでちょうだい」
添え状には、一行だけ書いた。お祝いをお返しいたします。コルシ伯爵夫人ノエミ。
理由は書かない。離縁返しの添え状には、理由を書かないものだ。
それから目録の最後の行の余白に、今日の日付を書いた。三月十四日。
「奥様」
フィリッポが何か言いかけて、やめた。この人は、主人が一年、何時に戻っているかを全部知っている。
「明日の朝、ラニエリ侯爵家へ届けて」
「かしこまりました」
エンリコ様は、夜明けに戻った。祝いの間は、覗かなかった。
* * *
次の日の午後、ラニエリ侯爵が、盤の箱を抱えて訪ねてきた。
「返されたものを、返しに来た」
海軍の白の礼装で、日に焼けた顔に、こめかみだけ白いものが混じっていた。春の評定のあいだ、提督は王都の屋敷にいるのだと、父の手紙にあったのを思い出した。客間ではなく、祝いの間へお通しした。フィリッポとピアが、扉のそばに控えている。
侯爵は箱を卓に置き、飾り棚の空いた一か所を見た。
「離縁なさったのか」
「いいえ。まだです」
「では、なぜ」
「昨夜、夫はモンティ男爵夫人のお宅におりました。祝っていただいた夫婦が、昨夜はおりませんでしたので、その晩の分をお返しいたしました」
「離縁返しを、先に」
「はい。夫婦でなかった晩の分だけ」
侯爵は、笑わなかった。棚に残った品を、端から一つずつ見ていった。
「二十三点か」
「はい」
「下から返しているのか。私が最後の行か」
「宴の三日後に届きましたので」
「夫君は、ご存じか」
「いいえ。この部屋には、いらっしゃいませんから」
「改めたら、どうなさる」
「そこで止めます。お返しした分は、お返ししたままですけれど」
侯爵は少し黙ってから、箱の留め金を外した。黒と白の駒を、盤の上に並べはじめる。大きな手なのに、駒を置く音がほとんどしなかった。
「添え状に書いた。再戦を」
「閣下、それはもうお返しした品で」
「私が勝てば、受け取ってもらう。あなたが勝てば、盤は持ち帰らない」
筋が通っているような、いないような申し出だった。けれど、白の駒を私のほうへ向けて置かれたら、指さないわけにはいかない。
フィリッポが、そっと椅子を引いてくれた。ピアは扉のそばで、両手を前で組んだまま、盤のほうへ首を伸ばしていた。
侯爵は、一年前より強くなっていた。宴の晩は二十手で済んだのに、今日は三十手を過ぎても、王の前の守りが崩れない。こちらが攻めると、一手遅れて、思いもよらない端の駒が動く。海の上で、一人で駒を動かしていたのかもしれない。
それでも、私は詰めた。倉の帳簿と同じで、どこに何が残っているかを覚えていれば、最後の一手は自然に見えてくる。
「……負けた」
侯爵は自分の王を倒して、盤から手を離した。
「では、盤は持ち帰らない」
言われて、申し出をもう一度なぞった。私が勝てば、盤は持ち帰らない。確かに、そうおっしゃった。筋が通っているような、いないような、と思ったのは、これだったのだ。
「……私が勝っても負けても、盤はここに残るのですね」
「約束どおりだ。勝った者が盤を取る。これは祝いではない。賞品だ。賞品は夫婦にではなく、勝った人に渡る」
私は盤を見た。どちらが勝っても、この盤は置いていかれることになっていた。
「最初から、置いていくおつもりでしたのね」
「海では、逃げ道のない陣を組む」
侯爵は外套を取り、扉のほうへ行きかけて、振り返った。
「あの宴で、新郎の席が三度空いた。三度とも、あなたは席を詰めて卓を回り、客を笑わせていた。私の卓に来たのは、三度目だった。駒を持つ手が、少しも震えていなかった」
見ていた人がいたのか、と思った。あの晩、私の手を見ていた人は、たぶん夫ではなかった。
「残りの二十三点を全部返したら、どうなさる」
「そのときは、目録の外のものを、もう一つお返しします」
侯爵は、それが何かは尋ねなかった。
「夏至までは王都にいる。そのあとは、リヴェラに戻る」
「リヴェラは、私の生まれた町です」
「知っている。帆布の倉の、子爵の娘だ」
侯爵が帰ったあと、私は盤を祝いの間の棚には戻さず、自分の部屋の窓辺に置いた。賞品は、夫婦のものではないそうだから。
* * *
灰色の便箋は、それからも届いた。届くたびに、私は目録の下から一つ包んだ。
三月の末に、夫の騎士学校の同期の方々から贈られた銀の杯六客をお返しした。爵位のない方の名も並ぶ連名の品なので、目録では下のほうに書かれている。その翌日、同期のお一人のドナーティ子爵が尋ねてきた。
「奥方。何かの手違いではありませんか。杯が、うちに戻ってきたのですが」
「手違いではございません。その晩、夫はラウラ様のお宅におりましたので」
子爵は、帽子を持ったまま青くなった。
「……あいつ、まだ通っていたのか。婚礼の宴で庭に出ていったのは、あの晩だけだと思っていた」
「あの晩が、始まりでした」
子爵はクラブでエンリコ様に問いただしてくれたらしい。エンリコ様は「何かの手違いだろう」と笑って済ませたと、子爵からの短い手紙にあった。家に帰ってきても、私には何も聞かなかった。
一度だけ、エンリコ様が祝いの間の前で足を止めたことがある。
「ずいぶん片付けたんだな」
「はい」
「そうか」
その晩も、灰色の便箋が来た。私はもう一つ包んだ。
四月二十八日の晩に包んだのは、香水瓶だった。モンティ男爵夫人より、香水瓶一つ。添え状には、細い字でこう書いてあった。末永く。あなたの旦那様の、いちばん古い友より。
一年前にこの添え状を読んだとき、私は意味を取り違えた。夫の古いお友達が、夫婦の末永い幸せを祈ってくださったのだと思った。
私は添え状を外さずに包み、いつもの一行を書き足した。お祝いをお返しいたします。
翌朝、エンリコ様が昼前に帰ってきた。昼前に帰ってくるのは、珍しいことだった。
「ノエミ! ラウラが泣いている。今朝、君が送り返した香水瓶が届いてから、ずっとだ」
夫は、居間で手紙を書いていた私の前に立って言った。上着は昨夜のままで、袖口に香水の匂いが残っていた。
「夫を亡くした人に、恥をかかせたんだぞ。あの人がどれだけ寂しい思いをしているか、君には分からないのか」
「お祝いを、お返ししただけです。ラウラ様からいただいた、夫婦へのお祝いを」
「君は強いから、一人でも平気だろう。ラウラは違うんだ。あの人には、僕しかいない。君なら分かってくれるだろう」
それから、思い出したように言った。
「ああ、それから。六月の叔父上の六十の祝い、支度は君に任せる。君ならうまくやれるだろう」
(夫婦の席は立っても、夫婦の仕事は置いていくのね)
腹は立たなかった。驚くほど、何も立たなかった。最後に残っていた何かが、香水の匂いと一緒に抜けていったのだと思う。
叔父様の宴は、叔父様のものだ。叔父様は、婚礼の日から私に優しかった。宴の席で新郎が三度消えたとき、杖で床を叩いて楽師に次の曲を促してくださったのは、叔父様だった。
「かしこまりました。叔父様の宴は、きちんと整えます」
「助かるよ。ラウラのところへ行ってくる。あの人を一人にしておけない」
夫は、帰ってきた上着のまま出ていった。
「フィリッポ、目録を」
晩を待たずに包んだのは、初めてだった。夫が晩までに戻らないことは、もう分かっていた。
香水瓶をお返ししてから、灰色の便箋は倍に増えた。おかげで、目録は早く上へ進んだ。
五月の初めには、返された品を、もう一度送り返してくる方もいた。燭台は、夫の遠縁の老伯爵から、短い手紙を添えて戻ってきた。お預かりしておきます。いつでも、あなたの手に戻せるように。私はその手紙を目録に挟み、燭台は老伯爵のもとへもう一度お返しした。筋は、変えられなかった。
五月二十日、私の二十の誕生日の晩も、夫は出ていった。料理人が焼いてくれた杏の菓子を、ピアとフィリッポと三人で分けた。それから、夫の母方の叔母のベルティ伯爵夫人からいただいた、刺繍の卓布を包んだ。
夜、部屋に戻ると、窓辺の盤が月の光で白く見えた。私は駒を並べて、侯爵との二局を、一手目から指し直してみた。三十手目の、端の駒が動いたところで手が止まった。あの一手は、今でも少しも読めなかった。
六月七日の晩、飾り棚に残っていたのは二点だった。一行目の、ガッリ公爵夫人の銀の茶器一揃い。二行目の、コルシ侯爵の、家の紋の入った銀の塩入れ一対。
私は、典礼院から離縁の申し立ての書面をもらっておいた。叔父様の宴の名簿には、祝いをお返しした贈り主の名前が、いくつも並んでいた。
宴の晩、私は馬車に包みを一つ積んだ。使わずに済めばいいと思いながら。
* * *
コルシ侯爵邸の広間は、六十の祝いにふさわしく賑やかだった。
席次も、料理の順も、楽師の曲目も、私が決めた。叔父様の好きな仔牛の煮込みを二皿目に出したところで、叔父様が白い口髭を拭って、杖で床を一つ叩いた。
「ノエミ。見事な段取りだ。わしの好物を、誰に聞いた」
「婚礼の宴で、二度お代わりをなさっていましたので」
「覚えておったか」
叔父様は声を上げて笑い、隣の代母様に「甥の嫁は目がいい」と言った。代母様は扇を閉じたまま、小さく頷いた。
菓子の前だった。従僕が一人、エンリコ様の椅子の後ろに回り、灰色の便箋を差し出した。
エンリコ様は便箋を開き、立ち上がった。
「叔父上、申し訳ありません。ラウラを一人にしておけない。あの人はまだ喪中なんだ」
「エンリコ。今夜は、わしの六十の祝いだぞ」
「ノエミがいますから。ノエミ、あとは頼むよ」
夫は、叔父様の返事を待たずに広間を出ていった。三十人の客が、扉が閉まるのを黙って見ていた。
私は立ち上がって、フィリッポに目で合図をした。フィリッポが、馬車から持ってきておいた包みを、私の手に載せた。
私は叔父様の席の前へ行き、包みを差し出した。
「叔父様。お祝いを、お返しいたします」
包みの中は、紋の入った銀の塩入れ一対だった。叔父様はそれを見下ろし、私の顔を見た。
「……離縁返しか。ノエミ、エンリコと何があった」
私が答えるより先に、客の中から声がした。
「うちには、三月の末に杯が返ってきました」
ドナーティ子爵だった。
「わたくしの卓布は、五月二十日」
ベルティ伯爵夫人が、扇を下ろして言った。
「ノエミの誕生日でしたわね。あの子、誕生日の晩に妻を置いて出かけたの」
「うちは五月に、燭台が。送り返したら、また返ってきた」
「うちは四月に、花瓶が」
「その晩は、伯爵はモンティ夫人のお宅に――」
誰かが言いかけて、口をつぐんだ。広間の半分が、私の顔と、閉まったままの扉を見比べていた。
「ノエミ」
代母のガッリ公爵夫人が、閉じた扇で私の手元を指した。
「目録を、お持ちね。お見せなさい」
私は手提げから目録を出し、二行目の余白に今夜の日付を書いてから、代母様に渡した。代母様は老眼鏡をかけ、頁をめくり、余白の日付を指でたどった。
「三月十四日。チェス盤、ラニエリ侯爵」
広間は静かだった。
「三月二十九日、銀の杯六客、騎士学校の同期の方々。……四月二十八日、香水瓶、モンティ男爵夫人」
何人かが、息を飲む音がした。
「五月二十日、刺繍の卓布、ベルティ伯爵夫人。……そして、六月八日。今夜ね」
代母様は目録を閉じた。
「二十三行に、日付がある。残っているのは、わたくしの一行だけ」
叔父様が、杖で床を叩いた。さっきより、ずっと強く。
「家令。従僕を二人連れて、エンリコを連れ戻せ。今すぐだ」
エンリコ様は、一時間とたたずに戻ってきた。
この一年で、夫がいちばん早く戻った晩だった。
広間に入ってきた夫は、叔父様の前の銀の塩入れと、代母様の手の目録と、三十人の目を、順に見た。
「エンリコ。お前は今夜、どこにいた」
「叔父上。ラウラは夫を亡くして、一人なんです。ノエミは強いから、一人でも大丈夫ですが――」
「伯爵」
代母様が、扇を閉じたまま言った。
「あなたの奥方も、この一年、一人でしたよ。この春からの分だけで、二十三晩」
夫は、口を開けて、閉じた。
「代母様のおっしゃるとおりです。でも、旦那様のおっしゃることも本当です」
私は言った。
「一人でも、大丈夫でした。ですから、一人になります」
手提げから、典礼院の書面を出した。
「離縁を申し立てます。旦那様、ご署名を」
エンリコ様は、書面を見て、それから私を見た。初めて私の顔を見た人のような目だった。
「……署名はしない。僕は、離縁なんて望んでいない。ラウラは何も悪くないんだ。君は、分かってくれていると思っていた」
「エンリコ」
叔父様が、夫の言葉の上から言った。
「喪中の寡婦が、毎晩よその夫を呼びつける。それを悪くないと言う男の妻が、一年黙って家を回し、今夜わしの宴を整えた。どちらの話を聞くか、わしは迷わん」
夫は、叔父様ではなく、私を見たままだった。
「存じております。分かってくれるだろう、と一年言われてまいりましたので。ですから、旦那様のご署名がなくても済むように、整えてまいりました」
夫婦の一方が署名を拒むときは、婚姻の証人お二人の署名を添えて、典礼院へ申し立てられる。証人の署名は、この婚姻は守られていない、と証すものだ。私たちの婚姻の証人は、夫の側が叔父様、私の側が代母様だった。
叔父様は、家令の差し出したペンを取った。
「この婚姻は、守られておらん」
太い字で署名をして、ペンを代母様へ回した。
「わたくしも」
代母様の署名は、小さくて、まっすぐだった。
「叔父上、待ってください。僕は――」
そのとき、広間の戸口に、もう一人の使いが立った。手に、灰色の縁取りの便箋を持っている。
「伯爵様。ラウラ様が、また――」
叔父様が、杖の先で使いを呼び寄せ、便箋を取って開いた。読み上げる声は、大きくなかった。
「今夜は一人でいられないの、エンリコ。ラウラ」
一年分、同じ文面だった。
エンリコ様は、振り向いた。
「ラウラを一人に――」
そこで、止まった。
三十人が、夫を見ていた。叔父様も、代母様も、ドナーティ子爵も、ベルティ伯爵夫人も。夫の口は、続きの形のまま開いていた。
ドナーティ子爵が、天井を仰いだ。ベルティ伯爵夫人は、扇で顔の半分を隠した。隠れていないほうの目は、少しも笑っていなかった。
「旦那様」
私は、夫のほうへ向き直った。
「目録の外に、もう一つ、お返しするものがございます」
「……何を」
「私です。父がこの家にお渡ししたものを、父のもとへお返しします。持参金も一緒に」
叔父様が、低い声で言った。
「証人二人が署名した離縁だ。非はエンリコにある。持参金は、全額サルヴィ家へ戻す」
それから、杖の先で床を一度叩いた。
「それと、皆にも聞いておいてもらおう。わしの跡は、ルイジに継がせる。家を空ける者に、家は渡せん」
エンリコ様の手から、何も持っていないのに、何かが落ちたように見えた。
「茶器は、明日届けてちょうだい」
代母様が、扇を開いて言った。
「離縁返しとして、受け取ります」
私は叔父様に深く頭を下げた。
「叔父様。締めの菓子には、蝋燭を六十本立ててございます。どうぞ最後まで、お楽しみくださいませ」
叔父様は、しばらく私を見てから、大きな声で笑った。
「最後まで、見事な段取りだ」
* * *
典礼院は、十日で離縁を認めた。持参金は金貨も港の倉の持ち分も、全額サルヴィ家に戻った。コルシ伯爵家は倉の賃料をなくして、二台目の馬車と、夏の別邸の借り上げを手放したそうだ。叔父様は、ルイジ様を跡継ぎとして典礼院に届けた。
祝いをお返しした贈り主の家々から、話は王都じゅうに広まった。エンリコ様への夜会の招きは、その季節、目に見えて減ったという。
モンティ男爵家は、喪のあいだ家の名を汚さないという約束が破られたとして、ラウラ様の寡婦の手当を止め、田舎の寡婦の家へ移した。エンリコ様が侯爵家を継がないと知れてから、灰色の便箋は、一通も届かなくなったと聞いた。
(あの方の涙は、どなたに宛てたものだったのかしら)
私は、ピアと盤を連れて、リヴェラへ帰った。父は港の倉の前で私を出迎え、何も聞かずに、私の荷の中の盤の箱だけを不思議そうに見ていた。
夏至を過ぎてすぐ、王都からエンリコ様の手紙が届いた。
ノエミ、家が回らない。倉の賃料のことで、家令が毎日帳簿を持ってくる。叔父上に取りなしてくれないか。君なら分かってくれるだろう。
私は、一行だけ返事を書いた。
叔父様の宴は、最後まで整えました。頼まれたお仕事は、あれで全部です。
夏至から六日たった朝、港の旗艦に、提督の旗が上がった。
その日の午前、父の書斎に客があった。サルヴィ家のテラスからは、港がよく見える。午後、旗を見上げていると、父が紺の外套の人をテラスへ案内してきて、自分は書斎へ引き返した。侯爵は、テラスの卓に私が出しておいた盤を見て言った。
「再戦を」
私は駒を並べた。今度は、侯爵が白を取った。
十手ほど指したところで、侯爵が駒を置く手を止めた。
「今朝、子爵にお会いした。娘が決めることだ、と言われた」
「何を、でしょう」
「私と、結婚してほしい」
私は盤から目を上げた。侯爵は、盤ではなく私を見ていた。
「あの添え状に、サルヴィ家のノエミ殿と書いた。宴で私を負かしたのは、コルシ伯爵夫人ではなかった。席の空いた卓を一人で回って、私の前に座った、帆布の倉の娘だった」
「盤が返ってきたときは、お腹立ちでしたでしょう」
「嬉しかった」
侯爵は、指しかけていた駒を盤に置いた。
「返す人は、受け取ったものの重さを、ちゃんと量っている人だ。私の贈った盤の重さも、量ってもらえた」
それから、侯爵は少し急いだように続けた。
「婚姻の届けが出せるのは、離縁が認められてから半年あとだと知っている。待つ。私は待つのに慣れている。海の上では、半年は短い」
「閣下。私は、一人でも大丈夫です」
「知っている。宴の晩から知っている」
侯爵は、少しだけ眉を下げた。
「一人でも大丈夫な人の隣に、いたいだけだ」
港のほうで、船の鐘が鳴った。私はしばらく、その音を聞いていた。
「……お受けいたします」
侯爵は、盤の上で私の手を取った。袖が当たって駒が一つ倒れたけれど、どちらも起こさなかった。
「この勝負は、婚礼の晩まで預けよう」
「次も、私が勝ちます」
「知っている」
その夜、父の家の者が、新しい目録を持ってきてくれた。婚礼の祝いを書き留めるための、まだ白い帳面だ。
私は、一行目を自分で書いた。
セヴェーロ・ラニエリ侯爵より、チェス盤一揃い。
その行の余白は、空けておいた。
お読みいただきありがとうございます。提督の側から見た、あの婚礼の宴も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。




