第9話 はじめて任せたいと言われた日
朝の執務室には、紙をめくる音と、低く交わされる報告の声が静かに満ちていた。
グレンフォード公爵領へ移ってから、この空気にもずいぶん慣れたと思う。
最初の頃は、同じ部屋に座っているだけで場違いな気がしていた。何を見ればいいのかも、どこまで口を出していいのかも分からなかった。けれど今は、机に運ばれてくる書類を見れば、どれが急ぎで、どれが少し後でもよいのかくらいは、何となく察せられるようになっていた。
もちろん、まだ学ぶことばかりだ。
それでも違和感のある数字にふと目が止まるくらいには、この机に向かう時間にも慣れてきた。
「こちらが春の慈善会の予算案、こちらが学校の修繕見積もり、こちらが医療院からの追加申請です」
補佐役がそう言って、机に書類を並べていく。
私は上から順に目を通し、医療院の申請書で手を止めた。
品目そのものは珍しくない。消毒用の薬液、包帯布、洗浄器具、保存棚の補修材。
けれど、見覚えのある数字に違和感があった。
前にも似た申請を見た気がする。
「……アシュレイ様」
向かいで別の報告書を読んでいた彼が顔を上げる。
「どうした」
「この申請、少し多くありませんか」
「どれだ」
書類を差し出すと、アシュレイ様は椅子を引いてこちらへ身を寄せた。
伏せられた睫毛の影が紙の上に落ちるほど近い。以前なら、それだけで身を固くしただろう。
けれど今は、そんなことでいちいち緊張していた自分を、少しだけ可笑しく思えるくらいには慣れてきたらしい。
「先月も似た品目で申請が上がっていたはずです。もちろん使うものではありますけれど、減り方が少し不自然な気がいたします」
「理由は分かるか」
「まだ、はっきりとは」
私は首を横に振った。
「ただ、帳簿の数字と申請の出方が、少し噛み合っていないように見えます」
アシュレイ様は書類に目を落とし、短く黙った。
以前の私なら、その沈黙にすぐ不安になっていただろう。
余計なことを言ったのではないか、差し出がましかったのではないか、と。
けれど今は、彼がただ考えているだけだと分かる。
「私も先月、同じ点が気になった」
やはり、と思って顔を上げる。
「医療院長には確認を入れたが、冬場の流行病の余波で消耗が増えた、という返答だった。もっとも、それだけで済ませてよいかは判断しかねている」
「……数字だけを見れば、別の見方もできますものね」
「ああ。横流しに横領──可能性はいくらでもある。領地を預かる以上、可能性は常に考えねばならん」
その声には、わずかに苦みが混じっていた。
「ええ。ですが無理に疑うところから入らずとも、見に行けば分かることもあると思います」
「……そうか」
「まず見て、それから判断したいのです」
私が書類へ視線を戻すと、アシュレイ様は静かに言った。
「……君に、見てきてほしい」
「わたくしに、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
「ああ。任せたい」
その一言に、胸の奥が小さく強張った。
「……よろしいのですか」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「何がだ」
「わたくしは、まだ教えていただいている途中です。書類を見ることには慣れてまいりましたけれど、医療院は人の出入りも多いでしょうし、現場の事情もございます。中途半端に入れば、かえってご迷惑になるかもしれません」
そう言うと、アシュレイ様は少しだけ目を細めた。
「君は、分からないことを分からないままにしない」
「それは……」
「気づいた違和感を放っておかないし、思いつきで人を切り捨てることもしない。ひとつずつ確かめて、きちんと整えようとする」
「……」
「実直で、よく見ている。私はそこを信頼している」
あまりに真っすぐ言われて、私は言葉を失った。
当たり前のようにしてきたことを、そんなふうに見ていただいていたと思うと、くすぐったかった。
「それに、君は数字の違和感にもよく気づく」
「嬉しいような、そうでもないような褒め言葉ですわね」
「そうか?」
「前の家でも、その手のことばかり拾っておりましたもの」
少しだけ肩をすくめて言うと、アシュレイ様の口元がわずかに和らいだ。
「なら、その力を今度は君の望む形で使えばいい。頼りにしている」
その言葉が、どんな理屈よりも深く胸に落ちた。
私は一度息を整え、背筋を伸ばした。
「……承りました。きちんと見てまいります」
その返事に、アシュレイ様は小さくうなずいた。
「必要なものがあれば言え。医療院長にも話は通しておく」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「では、結果を出してから申し上げますわ」
「その方が君らしい」
そんなやり取りができることが、少しだけ嬉しかった。
それから関連帳簿と先月分の申請書を預かり、必要な引き継ぎを受けて部屋を出る。
帳簿は重かった。
けれど、嫌な重さではなかった。
ふと窓辺で足を止める。
春はまだ浅く、庭の木々にも色づきはほんのわずかしかない。
それでも、風はもう冬のものではなかった。
部屋に戻り、帳簿を開いた。
医療院の記載は、思ったより癖が強そうだった。
品目ごとの書き方が少しずつ揺れていて、補充の時期も一定ではない。見慣れれば分かるのかもしれないけれど、誰が見てもすぐ追える形とは言い難い。
「……これは、なかなか骨が折れそうですわね」
小さくつぶやき、私はもう一度帳簿へ目を落とした。
午後には医療院へ向かうことになっている。
私は抱えた帳簿を、もう一度そっと抱え直した。
***
午後、馬車を降りた瞬間に、薬草と消毒液の匂いが鼻をかすめた。
グレンフォード公爵領の医療院は、屋敷から少し離れた場所に建っている。
石造りの建物は堅実で、外から見ればよく整っていた。けれど、扉の開閉はひっきりなしで、出入りする人々の足取りにも落ち着きがない。
「お待ちしておりました、リディア様」
出迎えたのは、四十代半ばほどの女性だった。
淡い茶色の髪をきっちりとまとめ、白衣の袖を無駄なく捲っている。
動きにも言葉にも無駄がないのに、目の下にはうっすらと疲れが残っていた。
「医療院の事務を預かっております、イルゼと申します」
名乗りは丁寧だった。
けれど、その目の奥にある疲れと警戒までは隠しきれていなかった。
どうやら歓迎されているわけではないらしい。




