表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者を奪われたので譲りますが、後始末はお断りです~今さら家族ぶられても、こちらから願い下げです~ 【連載版】  作者: アトハ
2章 役に立てる場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/14

第9話 はじめて任せたいと言われた日

 朝の執務室には、紙をめくる音と、低く交わされる報告の声が静かに満ちていた。


 グレンフォード公爵領へ移ってから、この空気にもずいぶん慣れたと思う。

 最初の頃は、同じ部屋に座っているだけで場違いな気がしていた。何を見ればいいのかも、どこまで口を出していいのかも分からなかった。けれど今は、机に運ばれてくる書類を見れば、どれが急ぎで、どれが少し後でもよいのかくらいは、何となく察せられるようになっていた。


 もちろん、まだ学ぶことばかりだ。

 それでも違和感のある数字にふと目が止まるくらいには、この机に向かう時間にも慣れてきた。


「こちらが春の慈善会の予算案、こちらが学校の修繕見積もり、こちらが医療院からの追加申請です」


 補佐役がそう言って、机に書類を並べていく。

 私は上から順に目を通し、医療院の申請書で手を止めた。


 品目そのものは珍しくない。消毒用の薬液、包帯布、洗浄器具、保存棚の補修材。

 けれど、見覚えのある数字に違和感があった。

 前にも似た申請を見た気がする。


「……アシュレイ様」


 向かいで別の報告書を読んでいた彼が顔を上げる。


「どうした」

「この申請、少し多くありませんか」

「どれだ」


 書類を差し出すと、アシュレイ様は椅子を引いてこちらへ身を寄せた。

 伏せられた睫毛の影が紙の上に落ちるほど近い。以前なら、それだけで身を固くしただろう。

 けれど今は、そんなことでいちいち緊張していた自分を、少しだけ可笑しく思えるくらいには慣れてきたらしい。


「先月も似た品目で申請が上がっていたはずです。もちろん使うものではありますけれど、減り方が少し不自然な気がいたします」

「理由は分かるか」

「まだ、はっきりとは」


 私は首を横に振った。


「ただ、帳簿の数字と申請の出方が、少し噛み合っていないように見えます」


 アシュレイ様は書類に目を落とし、短く黙った。


 以前の私なら、その沈黙にすぐ不安になっていただろう。

 余計なことを言ったのではないか、差し出がましかったのではないか、と。


 けれど今は、彼がただ考えているだけだと分かる。


「私も先月、同じ点が気になった」


 やはり、と思って顔を上げる。


「医療院長には確認を入れたが、冬場の流行病の余波で消耗が増えた、という返答だった。もっとも、それだけで済ませてよいかは判断しかねている」

「……数字だけを見れば、別の見方もできますものね」

「ああ。横流しに横領──可能性はいくらでもある。領地を預かる以上、可能性は常に考えねばならん」


 その声には、わずかに苦みが混じっていた。


「ええ。ですが無理に疑うところから入らずとも、見に行けば分かることもあると思います」

「……そうか」

「まず見て、それから判断したいのです」


 私が書類へ視線を戻すと、アシュレイ様は静かに言った。


「……君に、見てきてほしい」

「わたくしに、ですか?」


 思わず聞き返してしまう。


「ああ。任せたい」


 その一言に、胸の奥が小さく強張った。


「……よろしいのですか」


 口をついて出たのは、そんな言葉だった。


「何がだ」

「わたくしは、まだ教えていただいている途中です。書類を見ることには慣れてまいりましたけれど、医療院は人の出入りも多いでしょうし、現場の事情もございます。中途半端に入れば、かえってご迷惑になるかもしれません」


 そう言うと、アシュレイ様は少しだけ目を細めた。


「君は、分からないことを分からないままにしない」

「それは……」

「気づいた違和感を放っておかないし、思いつきで人を切り捨てることもしない。ひとつずつ確かめて、きちんと整えようとする」

「……」

「実直で、よく見ている。私はそこを信頼している」


 あまりに真っすぐ言われて、私は言葉を失った。

 当たり前のようにしてきたことを、そんなふうに見ていただいていたと思うと、くすぐったかった。



「それに、君は数字の違和感にもよく気づく」

「嬉しいような、そうでもないような褒め言葉ですわね」

「そうか?」

「前の家でも、その手のことばかり拾っておりましたもの」


 少しだけ肩をすくめて言うと、アシュレイ様の口元がわずかに和らいだ。


「なら、その力を今度は君の望む形で使えばいい。頼りにしている」


 その言葉が、どんな理屈よりも深く胸に落ちた。

 私は一度息を整え、背筋を伸ばした。


「……承りました。きちんと見てまいります」


 その返事に、アシュレイ様は小さくうなずいた。


「必要なものがあれば言え。医療院長にも話は通しておく」

「ありがとうございます」

「礼はまだ早い」

「では、結果を出してから申し上げますわ」

「その方が君らしい」


 そんなやり取りができることが、少しだけ嬉しかった。

 それから関連帳簿と先月分の申請書を預かり、必要な引き継ぎを受けて部屋を出る。


 帳簿は重かった。

 けれど、嫌な重さではなかった。


 ふと窓辺で足を止める。

 春はまだ浅く、庭の木々にも色づきはほんのわずかしかない。

 それでも、風はもう冬のものではなかった。


 部屋に戻り、帳簿を開いた。

 医療院の記載は、思ったより癖が強そうだった。

 品目ごとの書き方が少しずつ揺れていて、補充の時期も一定ではない。見慣れれば分かるのかもしれないけれど、誰が見てもすぐ追える形とは言い難い。


「……これは、なかなか骨が折れそうですわね」


 小さくつぶやき、私はもう一度帳簿へ目を落とした。

 午後には医療院へ向かうことになっている。

 私は抱えた帳簿を、もう一度そっと抱え直した。




***


 午後、馬車を降りた瞬間に、薬草と消毒液の匂いが鼻をかすめた。


 グレンフォード公爵領の医療院は、屋敷から少し離れた場所に建っている。

 石造りの建物は堅実で、外から見ればよく整っていた。けれど、扉の開閉はひっきりなしで、出入りする人々の足取りにも落ち着きがない。



「お待ちしておりました、リディア様」


 出迎えたのは、四十代半ばほどの女性だった。

 淡い茶色の髪をきっちりとまとめ、白衣の袖を無駄なく捲っている。

 動きにも言葉にも無駄がないのに、目の下にはうっすらと疲れが残っていた。


「医療院の事務を預かっております、イルゼと申します」


 名乗りは丁寧だった。

 けれど、その目の奥にある疲れと警戒までは隠しきれていなかった。


 どうやら歓迎されているわけではないらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お読み頂きありがとうございます!!
↑↑を★★★★★にして応援頂けると嬉しいです!!

+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ