第8話 【SIDE:セシル】破滅の序曲
お姉様がいなくなってから、屋敷の者たちは少し大袈裟になった気がする──セシルは、その程度にしか思っていなかった。
朝から廊下を行き来する足音が妙にせわしないのも、女中たちがいつもより深く頭を下げるくせに、どこか余裕のない顔をしているのも、きっと春の催しが近いからだろう、と。
少し忙しくなったくらいで、皆ぴりぴりしすぎなのだ。
セシルがそう思いながら食堂へ入ると、父と母の前には朝食よりも書類の方が広がっていた。
「あら、おはようございます」
セシルが声をかけても、母は顔を上げただけだった。
「ええ、おはよう」
それきり会話は続かない。
父は苛立たしげに紙束をめくり、母は封を切った手紙を何度も読み返している。いつもなら整っている朝の食卓が、今日は妙に落ち着かなかった。
「何かございましたの?」
母は疲れたようにこめかみを押さえた。
「春の催しに関する確認が滞っているの。返書もいくつか遅れているわ」
「それくらいなら、順番に片づければよろしいでしょう?」
母は何とも言えない顔をした。
父が低い声で言う。
「今までのようにはいかん」
「どうしてですの? 今までできていたのなら、今回だって同じようにすれば」
その言葉に、父の手が止まった。
母もゆっくりと顔を上げる。
その反応の意味が分からず、セシルはむしろむっとした。
「まるで、お姉様がいなければ何もできなかったみたいですわ」
否定は返ってこなかった。
その沈黙だけで、食堂の空気が少し冷えた気がした。
ちょうどそのとき、執事が食堂へ入ってきた。
「旦那様、ヴァレントン伯爵家より使いの方がお見えです」
「ヴァレントン伯爵家から?」
フレデリックの家の名に、セシルはぱっと顔を明るくした。
けれど、父の表情は険しいままだった。
「応接間へ通しております」
「分かった。すぐ向かう」
父が立ち上がり、母も続く。
セシルも当然のように椅子を引いた。
「わたくしも参りますわ」
「あなたはここにいなさい」
「どうしてですの? ヴァレントン伯爵家のお話なのでしょう? でしたら、わたくしにも関係があるではありませんか」
母は眉を寄せたが、父は短く言った。
「好きにしろ。ただし余計なことは言うな」
応接間には、ヴァレントン伯爵家の執事長が座っていた。
地味だが仕立ての良い服を着て、姿勢に崩れがない。
派手さはないのに、無駄のない所作のせいか、かえって隙が見えなかった。
「ヴァレントン伯爵家の執事長、ローレンスと申します」
父母が挨拶を返すより先に、セシルは一歩前へ出た。
「セシル・エヴァンズですわ。フレデリック様とは婚約の運びとなっておりますの。ヴァレントン伯爵家のご懸念についてでしたら、わたくしも承ってよろしいでしょう?」
一瞬、部屋の空気が止まった。
ローレンスはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな間が空いてから、丁寧に頭を下げる。
「……恐れ入ります、お嬢様。本件は、エヴァンズ伯爵家様とヴァレントン伯爵家の間で進めております確認事項にございます」
「ですから、わたくしも」
「正式なお立場が定まってからのお話かと存じます」
やわらかな口調だった。
それなのに、ぴしゃりと扉を閉められたような冷たさがあった。
セシルは息を呑んだ。
まるで、何も分からない子供のように扱われた気がした。
これからヴァレントン伯爵家へ入るのは自分なのに。
「セシル、下がっていなさい」
おまけに母まで、それに同意する。
胸の奥がむっと熱くなる。こんなふうに人前でたしなめられたことなど、ほとんどないのに。
しぶしぶ一歩下がると、ローレンスは最初からセシルなどいなかったかのように父へ向き直った。
それから重々しく口を開く。
「春の催しに関する段取りと、共同事業の清算について確認に参りました。昨年までであれば、このような行き違いはございませんでしたので」
「確認中だ」
父の声は低い。
「その確認が遅れていること自体が、すでに懸念されております」
「……こちらを疑っているということか」
「疑う疑わないではございません」
ローレンスは淡々としていた。
「確認が必要、ということです」
静かな言い方だったが、応接間の空気はぴんと張った。
さらにローレンスは、わずかに目を伏せて続けた。
「こちらでも何とか繕ってまいりましたが、あの方がおられた頃のようには参りません。去年まではだましだまし回しておりましたが、もはや限界でございます」
「何が言いたい」
「申し上げている通りでございます」
そこで一拍置いてから、ローレンスは抑えた声で続けた。
「昨年まで滞りなく回っていたものの多くが、リディアお嬢様の気配りと段取りの上に成り立っていました」
「それくらい、わたくしが代わりに……!」
セシルが、一歩前に出た。
「はあ、あなたが?」
ローレンスの視線はどこまでも冷たい。
──また、お姉様のことばかり。
そんなに持ち上げるほどのことかしら、とセシルは腹が立った。
少し細かいことが得意だっただけでしょうに。
そういう面倒なことを先回りしていたから何だというのだ。
そんなことより、フレデリック様の隣に立つために愛らしさを磨くことの方が大事なのに。
そう言って父母がローレンスをたしなめてくれるものと思った。
けれど二人は、何も言い返せなかった。
──面倒くさいなあ、誰かやってくれればいいのに
というより、解決策は簡単なのだ。
そこまで困っているのなら、無理にでもお姉様を呼び戻せばいい。
アシュレイ様との縁だって、所詮はお姉様が意地を張ってしがみついているだけではないか。
あんなもの、家が本気になればどうとでもなるはずだ。前回はお姉様のワガママで失敗したが、次に会うときは自分の役割を自覚してほしいものだ。
そう思うと、先ほどローレンスに冷たく線を引かれたことまで、お姉様のせいのように思えてきて、余計に腹が立った。
──あれだけはっきり追い払われたことは、セシルの中ではもう都合よく薄れていた。
エヴァンズ家のためなのだから、手伝うのは当然。
セシルはまだ、本気でそう思っていたのだ。
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