第7話 私の幸せは、私が選ぶ
「何に、ですか」
「ヴァレントン伯爵家との書類のことや、春の催しの調整や……いろいろと、少し混乱していて」
私は静かに母を見た。
「謝罪のためにいらしたのではないのですね」
「謝罪?」
「私を婚約披露の場で切り捨て、今になって助力を求める。まず言うことがあるのでは、と伺っているのです」
「家族の間で、そんな昔のことを蒸し返すものではないわ」
母は少し不快そうに言った。
「終わった話でしょう」
「私にとっては終わったからこそ、いまここでお断りしているのです」
セシルが、慌てたように口を挟んだ。
「お姉様、そんな言い方なさらないで。わたくしたち、本当に困っているの」
「そうでしょうね」
「少し見てくださるだけでいいのよ? お姉様なら、こういうことはすぐお分かりになるでしょう?」
昔と同じだった。
欲しいものがあるときだけ、甘く縋るような声を出す。
「お断りします」
「どうして……?」
「私はもう、あなたたちの後始末をするつもりはないからよ」
セシルの目が揺れる。
母がたしなめるように眉を寄せた。
「後始末だなんて、人聞きの悪いことを」
「違いますか?」
私は問い返した。
「欲しいものだけ手に入れて、整えるのは私の役目。ずっとそう思っていらしたのでしょう」
母が言葉に詰まる。
その隣で、セシルの顔がわずかに強ばった。
「お姉様、そんなつもりじゃ……」
「では、どんなつもりだったの?」
まっすぐ問うと、セシルは答えられなかった。
私はそのまま静かに言葉を重ねる。
「婚約披露の夜、私は申し上げたはずよ。あなたが彼の隣に立つなら、避けては通れないものがあると」
「わたくしは……」
「でも、あなたは婚約者だけを欲しがって、その隣に立つ責任の方は見ようとしなかった」
セシルの唇が震える。
「そんなこと……」
「違うの?」
小さく首を傾げると、セシルの目にみるみる涙が溜まった。
「だって……わたくし、本当に困っているのよ……!」
「ええ」
「お姉様がいなくなってから、何もかもおかしくなったの! みんな、前みたいじゃなくて──」
そこでとうとう、セシルは取り繕うのをやめた。
「どうしてわたくしばっかり、こんな思いをしなくちゃいけないの!? お姉様だって、いつも最後には譲ってきたじゃない!」
「セシル!」
「だってそうでしょう、お母様!」
頬を赤くして叫ぶその顔には、もう可憐さの欠片もなかった。
「お姉様は昔から何でもできたじゃない! このくらい、少し手を貸してくださってもいいはずだわ! どうして急にそんなに冷たくなるの!?」
応接間がしんと静まる。
私はただ、静かに妹を見つめた。
「やっぱり、それが本音なのね」
「……っ」
「欲しがって手に入れるだけ。都合の悪いことは、いつも私に押しつける。昔から何も変わらないのね」
セシルの目から、大粒の涙がこぼれた。
「お姉様なんて、大嫌い!」
「そう」
私は淡々と答えた。
「それで結構よ」
その一言で、セシルは完全に泣き崩れた。
母は呆然と立ち尽くし、何も言えない。
フレデリックも、ただ険しい顔のままそれを見ていた。
私はゆっくりと視線を動かし、フレデリックを見た。
目が合った瞬間、彼の喉がわずかに動く。
何か言いたげだった。けれど、言葉にならないらしい。
「……リディア」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「何を今さら」
眉を寄せるフレデリックに、私は淡々と告げた。
「惜しいのは私ではなく、私の便利さでしょう」
その一言に、フレデリックの表情が目に見えて歪んだ。
否定したいのに、できない。
そんな顔だった。
──そのときだった。
「話は終わったか」
低く静かな声が、扉の方から落ちた。
振り向くと、アシュレイ様がそこに立っていた。
その眼差しは、冬の夜気のように冷たい。
「こ、公爵閣下……これは家族の話でして……」
「だから何だ」
母の言葉を、アシュレイ様は一息で切り捨てた。
「妻が断った。ならば終わりだ」
「ですが、少し力を貸してもらえれば――」
「なぜ妻が、お前たちの後始末を引き受ける必要がある」
母は言葉に詰まり、セシルは泣き崩れたまま顔を上げられない。
フレデリックだけが、かろうじて口を開いた。
「これは両家の問題です」
「違うな」
アシュレイ様の声は低く、揺るがなかった。
「一度は捨てた相手に、今さら都合よく頼ろうとしているだけだ」
「……」
「手放した相手を便利に使えると思うな」
フレデリックの顔が赤くなる。
だが、何も言い返せない。
アシュレイ様は三人を順に見渡し、最後に淡々と言い切った。
「妻を都合のよい駒のように扱う相手に、二度と触れさせるつもりはない」
応接間は、水を打ったように静まり返った。
私は静かに立ち上がる。
「お帰りください」
母が最後の悪あがきのように声を絞り出す。
「リディア……本当に、こんな形で家族を追い返すつもりなの?」
「はい」
「後悔するわよ」
「しません」
間を置かずに答える。
「あなたたちを失うことより、自分を失う方が、ずっとつらかったもの」
母は息を呑み、セシルは泣き崩れたまま動けない。
フレデリックは黙ったまま目を伏せた。
三人は使用人に促されるようにして、惨めなほど静かに応接間を出ていく。
──扉が閉まる。
ようやく、長くまとわりついていた何かが、完全に断ち切れた気がした。
小さく息を吐くと、隣にアシュレイ様が立つ。
「疲れたか」
「少しだけ」
「よく言った」
「……はい」
その短い言葉が、驚くほど胸にしみた。
アシュレイ様は私の肩をそっと抱き寄せる。
「もう、あれに譲る必要はない」
「ええ」
「君は、ここにいればいい」
私はその胸元に額を預けた。
そうしていると、ようやく本当に終わったのだと思えた。
「婚約を破棄されたあの日、私は捨てられたのだと思っていました」
「違う」
「ええ。今なら分かります」
「言ってみろ」
促されて、私は少し笑った。
「見る目のない人たちが、勝手に手放しただけです」
「その通りだ」
アシュレイ様は満足そうに頷いた。
私はその胸元に額を寄せたまま、小さく続ける。
「それでも、あなたに助けられたことは変わりません」
「助けたつもりはある」
「では、私は運よく拾われたのでしょうか」
「違う」
抱き寄せる腕に、少しだけ力がこもる。
「私は君を同情で迎えたつもりはない」
「では?」
「望んで迎えた」
その言葉が嬉しくて、私は彼の胸にそっと頬を寄せた。
「私も、ここへ来られて良かったと思っています」
「良かった、だけでは困る」
「困るのですか」
「ああ。もう二度と離す気はない」
その言葉が、不思議なくらい嬉しかった。
もう、この人の腕の中で怯える理由は、どこにもなかった。
──その頃のエヴァンズ家は、まだ事の深刻さを分かっていなかった。
リディアを失ったことで生じた穴は、彼らが慌てている書類や予定の混乱だけではない。
春の催し、納品契約、共同事業の支払い、両家の信用。綻びはすでに静かに広がり始めていた。
もはやそれは、娘ひとりに泣きついて済むような後始末ではなかった。
気づいたときには、彼らは自分たちが何を手放したのかを、嫌でも思い知ることになる。




