第5話 ここでは、私の手が届く
「お姉様がいなくなっただけでしょう!? 帳簿だの契約だの、そんなの執事たちにやらせればいいじゃない!」
「それで回るなら、最初からそうしていたでしょう」
「何よ、その言い方!」
「……セシル。今回の件は、欲しいものだけ手に入れて終わりにできる話ではないの」
セシルが息を呑む。
「私はただ、選ばれただけよ!」
「ええ」
「私は悪くないわ! 好きになられただけじゃない!」
「選ばれたのなら、その結果くらい引き受けなさい」
セシルの目にみるみる涙が溜まる。
「どうしてそんな言い方をするの……」
「初めて責任がついてきたから?」
「お姉様ばっかり……!」
そのとき、父が苛立った声を上げた。
「もういい、二人とも。リディア。出ていく前に引き継ぎくらいはしていけ」
「なぜです?」
「家族だからだ!」
私はしばらく父の顔を見つめた。
「婚約を破棄された翌朝、お母様は私よりセシルを優先しました。お父様は私を家の恥だとおっしゃった。セシルは私のものを奪って当然だと思っていた。それでも、まだ家族と呼べるのでしょうか」
母が青ざめた顔で口を開く。
「あなた、それは……言い過ぎよ」
「言い過ぎではありません」
「私たちは、あなたのこともちゃんと……」
「大切にしてくださったと?」
「リディア、どうしてしまったの。あなたは昔はもっと聞き分けのいい子だったでしょう」
その言葉に、私はほんの一瞬だけ目を伏せた。
「ええ。お母様にとって私は、昔から『聞き分けのいい子』ではなく『都合のいい子』でしたものね」
「……っ」
「私は平気だったのではありません。我慢していただけです。……家族でいたかったのは、私の方でした」
その言葉で、部屋がしんと静まった。
「さようなら。……安心してください、恨んではいませんから」
「……それなら!」
「ただ、もう戻りません」
私は静かに立ち上がる。
母の慌てたような声が追ってきた。
けれど、私は振り返らなかった。
もう、この人たちに私の行き先を決めさせるつもりはない。
***
グレンフォード公爵領へ移ってから、私は少しずつ領地の仕事に触れるようになった。
最初は、執務室で書類を見せていただいたり、視察の報告を聞かせていただいたりする程度だった。
学校や医療院、冬を越えるための備蓄――目を通すべきものは多く、書類の数字と現場の実情が、必ずしも同じではないこともすぐに分かった。
「この報告について、君はどう思う」
「数字の上では足りておりますが、実際には偏りが出ているかと。こちらの村は、雪が深くなれば運び込みが遅れます」
「……なるほど」
そうして考え込む横顔を見ながら、私は胸の奥がわずかに落ち着かないのを感じた。
言ったことをただ聞き流されるのではなく、こうして本気で検討されることに、まだ慣れていない。
「それと、医療院の消耗品も帳簿の減り方が早いです。流行り病の備えを見直した方がよろしいかもしれません」
「私もそこは気になっていた」
机の上の帳簿に置かれた指先が、減りの早い項目をひとつずつ追っていく。
私の違和感が、ただの口出しとして流されない。
それだけのことが、少しだけ嬉しかった。
「次の視察に同行してほしい。君にも、我が地の現場を見てほしい」
「もちろんです」
伯爵家にいた頃も、私は帳簿を見て足りないものを拾い、先回りして整えることには慣れていた。
もっとも、あちらでそれを喜ばれたことは一度もなかったけれど。
大きなことを任されているわけではない。
けれど、見落とされそうな綻びに気づくたび、アシュレイ様はきちんと耳を傾けてくださる。
それがひどく不思議で、胸の奥が少しだけくすぐったかった。
ある雪の日の夜、執務室で書類を片づけていると、アシュレイ様が温かい紅茶を置いてくれた。
「少し休もう」
「ありがとうございます」
「君は頑張りすぎる」
「そんなことは」
「ある。疲れている顔をしている」
しばらく静かな時間が流れる。
窓の外では雪が音もなく降り続けていて、執務室の灯りだけが、そこだけ別の季節みたいに温かかった。
アシュレイ様が椅子に腰を下ろし、私を見た。
「聞きたいことがある」
「何でしょう」
「君は今、幸せだろうか」
思いがけない問いだった。
けれど、答えに迷いはなかった。
「はい」
そう返すと、アシュレイ様はほんのわずかに息をついた。
安堵したのだと、顔を見るまでもなく分かった。
「私の幸せを、そんなに気にしてくださるのですね」
「気になる」
「どうしてですか」
アシュレイ様は少し黙った。
視線が、机の上の書類へ落ちる。
けれど逃げるようには見えなかった。ただ、言葉を探しているだけだった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「それは──」




