第4話 私は、軽んじられてもいい人間に見えましたか
短い沈黙のあと、アシュレイ様は静かに口を開いた。
「あの夜、君をあの場に残して帰る気になれなかった」
「……」
「なぜそう思ったのかは、あとから分かった」
「後から?」
「先に体が動いた。そういうことは、今までなかった」
整えた言葉ではなかった。
それでも、ごまかしはなかった。
「それが求婚の理由、ですか?」
「いいや、あれは始まりだ」
「始まり」
「ああ」
アシュレイ様はわずかに目を伏せ、それから続けた。
「以前から、君がヴァレントン家のことをよく支えているとは聞いていた。だが、知っていたつもりだっただけだ」
「……」
「あの夜、実際に見た」
「何をでしょう」
「君が、誰かを引きずり落とす方へ行かなかったことだ」
息をするのを忘れた。
「理不尽に侮辱されて、黙っていられない人間もいる」
「はい」
「泣いて訴えることもできた。他の誰かを悪者にして、その場をひっくり返すこともできた」
「……」
「だが、君はそうしなかった」
低い声は静かだった。
責めるでもなく、褒めそやすでもなく、ただ事実のみを告げるような言い方だった。
「それは、そうするしかなかっただけです」
「かもしれない」
「……なら、それは褒められるようなことではありません」
「それでも、できる人間ばかりではない」
私は答えられなかった。
「あれを強さと呼ぶのは、少し違う気がする」
「では、何だと思われたのですか」
「品位だ」
その一言が、思いのほか深く胸に落ちた。
笑われるか、哀れまれるか、そのどちらかだと思っていた。
あの夜の私を、そんなふうに見ていた人がいたなんて。
「……」
「だが、品位があることと、踏みにじられ続けることは別だ」
私は思わず顔を上げた。
「私は、軽んじられてもいい人間に見えましたか」
「見えない」
「……」
「だから、あのままにはしておけなかった」
あまりにも真っ直ぐで、私は一瞬言葉を失った。
「ですが、助けるだけなら別邸に泊めるだけでも十分だったはずです」
「そうだな」
「では、どうして……」
「手放したくないと思った」
今度こそ、息が止まった。
アシュレイ様はわずかに眉を寄せた。
自分で口にしておいて、その重さを測りかねているようにも見えた。
「私は社交の場で気の利いた言葉を並べるのは得意ではない」
「はい」
「だが、君を軽んじるつもりはない。それだけは約束できる」
「……」
「君があの家を離れたいと望むなら、まず居場所を用意する。そのうえで、私を選ぶかどうか考えてくれればいい」
やはり不器用だと思った。
求婚の言葉なのに、先に逃げ道を用意してしまうあたりが、この人らしい。
「普通は逆ではありませんか」
「逆では困るのか」
「いいえ。ただ……」
「ただ?」
「ずいぶん不器用な方なのだと思いまして」
「否定はしない」
真顔で返されて、私は小さく笑った。
するとアシュレイ様の目元が、ごくわずかにやわらぐ。
「君は……笑った方がいい」
「え?」
「その方が、いい」
今度は私が黙る番だった。
そんな私を見て、アシュレイ様はわずかに視線を逸らした。
「……今のは、忘れてくれ」
「忘れられません」
「そうか」
「はい。……ありがとうございます」
こんなふうに、肩の力を抜いて話せたのはいつぶりだろうと思った。
この人の前では、必要以上に身構えなくていいのかもしれない。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「もし私が、あなたの求婚を断ったとして──」
「……ああ」
「後悔なさいますか?」
アシュレイ様は少しも迷わなかった。
「する」
「……そうなのですね」
「だが、それでも無理に頷かせる気はない」
その答えが、なぜだか嬉しかった。
この人となら、少なくとも軽んじられることはない。
救われるためではなく、自分の意思で隣に立ちたいと、初めて思えた。
その場で返事はしなかった。
けれど帰る頃には、心はかなり決まっていた。
***
グレンフォード公爵との婚約は、王都で大きな話題になった。
フレデリックは感情に任せて婚約を破棄した。
セシルは姉の婚約者を奪った。
エヴァンズ伯爵夫妻は長女を守らなかった。
そして何より、あの夜、私が口にした帳簿や契約の話が、じわじわと広がり始めていた。
エヴァンズ家とヴァレントン伯爵家を見る目が、少しずつ変わり始めていた。
──当たり前と思われていたことは、なくなってからようやく重さが知れるらしい。
実家を出る前の最後の日、ついにセシルが声を荒げた。
「どうしてこんなことになるのよ!」
泣きそうな目をしているのに、そこに宿っているのは可憐さではなく苛立ちだった。




