第31話 ここが私の家
慈善会から数日が経った。
「また増えましたわね」
ある日の朝。
アシュレイ様の執務室で、私は机の上に積まれた書状を見ていた。
孤児院からのお礼。
慈善会に参加していた商会から、今後の支援についての相談。
それから、見習いたちについての報告も届いている。
慈善会での一件は、どうやら社交界でもかなり話題になっているらしい。
グレンフォード公爵家の新しい夫人が、滞っていた支援をその場で立て直した――そんな噂が広がり、以前にも増して私宛ての招待状や面会を求める書状が届くようになっていた。
もちろん、これを機に公爵家との縁を作りたいという思惑もあるのだろう。
それでも以前なら考えられなかったことだ。
「三人とも、受け入れていただけそうですわ」
最初に会った少女は商会の事務へ。
体力に自信がある少年は倉庫へ。
針仕事が得意だった少女は仕立屋へ。
それぞれ本人と受け入れ先が話をしたうえで、正式に見習いとして迎えてもらえることになった。
「それから、ノワールさんも」
最後の一通を手に取る。
「グラウス商会で、見習いとして受け入れていただけるそうです」
「決まったのか」
「ええ」
思わず頬が緩んだ。
「もちろん、最初から信用してもらえるわけではないでしょうけれど。そこは本人も分かっているようですわ」
それでも、見習いとして受け入れてもらえるところまで辿り着いた。
あれだけ悪い印象から始まったことを思えば、十分すぎる結果だ。
あとはノワール自身が、少しずつ信用を積み重ねていけばいい。
私は書状を置き、今度は別の束へ目を移した。
「……本当に、お仕事が増えてしまいましたわね」
つい苦笑する。
「君が嫌なら断ってもいい」
「嫌ではありませんわ」
すぐに答えた。
「やりたかったことです。ただ……」
「ただ?」
「私が言い出したせいで、アシュレイ様のお仕事まで増やしてしまったなと」
慈善事業を引き受けると言ったのは私だ。
それが、気がつけばグレンフォード家全体で取り組む問題になってしまった。
「ですから、少し申し訳なくて」
アシュレイ様が書類から顔を上げた。
少しだけ、不思議そうな顔をしている。
「何を謝っている?」
「私が言い出したことで、アシュレイ様のお仕事まで増えたでしょう?」
「私も賛成しただろう」
「それは、そうですけれど……」
「商会との繋がりも増えた。公爵家にとっても悪い話ではない」
アシュレイ様は、机の上の書状へ目をやる。
「それに、増えた仕事は私が望んだものだ」
「……」
「君が謝ることではない」
あまりにきっぱりと言われて、返す言葉がなくなった。
「……では、謝るのはやめますわ」
「それも違うな」
「え?」
「もっと好きにしていい」
思わず目を瞬く。
「君はまだ、この家で遠慮しすぎだ。グレンフォード家の者を、顎で使うぐらいの心構えでちょうどいい」
「そんな無茶な……」
どこまで本気なのだろう。
そんなことを真顔で言われて、少しだけ笑ってしまった。
***
昼を過ぎた頃、私は外出の支度を整えて玄関へ向かった。
「今日は孤児院だったか?」
「はい。そのあと、衣料をお願いした商会にも寄ってまいります」
引き継いだ支援について、今後の窓口を改めて伝えておきたかった。
「遅くなるか?」
「いいえ」
私は少し考えてから答える。
「夕食には戻りますわ」
「ああ」
アシュレイ様が頷いた。
「待っている」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど馬車へ乗り込んでからも、その言葉が胸に残っていた。
夕食には、いつもの席があって。
帰れば、アシュレイ様がいる。
(……ちゃんと夕食までには戻りませんと)
そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ口元が緩んだ。
***
孤児院での話は、思っていたより早く終わった。
続いて商会へ顔を出し、今後の納品について簡単に打ち合わせをする。
「今後ともよろしくお願いいたします、公爵夫人様」
「こちらこそ。急なお願いにもかかわらず、本当にありがとうございました」
店を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
それでも、夕食には十分間に合う。
馬車へ乗り込み、屋敷への道を進む。
アシュレイ様は、もう仕事を終えているだろうか。
もしかすると、また執務室で書類に囲まれているかもしれない。
(帰ったら、お茶でもお持ちしましょうか)
そんなことを考えながら、窓の外を眺める。
いつも通る大通りへ差しかかったところで、馬車がゆっくりと速度を落とした。
「どうしましたの?」
「少々お待ちください、奥様」
御者が答える。
ほどなくして、護衛の一人が窓辺へ寄ってきた。
「この先で荷馬車同士がぶつかったようです。道を塞いでおります」
「通れませんの?」
「今すぐは難しいかと。一本外れた道から回れば、少し遠回りにはなりますが屋敷へ戻れます」
窓越しに前を見る。
確かに道の先には人だかりができていた。
その向こうで、大きな荷馬車が斜めに止まっているのも見える。
「分かりました。そちらから参りましょう」
「はっ」
馬車が向きを変える。
大通りを外れると、次第に人通りが少なくなった。
建物の間隔も広くなり、倉庫や塀ばかりが目立つようになる。
普段は使わない道だ。
とはいえ、前後には公爵家の護衛がついている。
遠回りになった程度で、わざわざ気にすることもないだろう。
馬車が、再び速度を落とすまではそう思っていた。
外で、御者が何かを言う。
「奥様、中にいてください!」
続いて護衛の鋭い声が上がった。
窓の外を見る。
いつの間にか、前方にも後方にも男たちが立っていた。
道の両脇からも、さらに何人かが姿を現す。
完全に囲まれている。
(……おかしい)
そう思った瞬間。
「止まれ!」
怒鳴り声が響いた。
馬車が止まる。
護衛たちがすぐに馬を降りた。
「奥様、馬車から出ないでください!」
短い指示。
私は答えず、窓の隙間から外を見る。
十人近い男たちが、剣や棍棒を手に道を塞いでいる。
「――!」
その中央にいた少女を見て、息を呑んだ。
先日、孤児院で話をした、針仕事が得意な少女だった。
仕立屋への見習いが決まったばかりの子だ。
後ろから男に腕を捻り上げられ、首元には短剣が当てられている。
「リディア・グレンフォード! 聞こえてるんだろ!」
男が大声を上げた。
「奥様に対してなんと無礼な……!」
「その子を離せ!」
護衛たちが一斉に剣を構えるが──
「動くな!」
短剣が少女の首へ寄せられた。
「剣を捨てろ! こいつの首が飛んでもいいなら別だがな!」
少女の小さな悲鳴が漏れる。
護衛たちが、剣を構えたまま動きを止める。
(まずい──護衛たちは、見知らぬ孤児一人よりも確実に私を優先する)
それが彼らの役目なのだから、責めることはできない。
孤児院の見習いのことを知っているのは誰だ……?
そんな疑問が頭をよぎるが、まず優先するべきは目の前の事態だ。
男たちは、こちらの馬車へ視線を集中させていた。
狙いは分かりきっている。
私は扉を開いた。
「奥様!」
「そのままで」
護衛を制し、馬車を降りる。
「怖かったですね。もう大丈夫です」
「リディア様──駄目です!」
少女が私を見て、泣きそうな声を上げた。
私は安心させるように微笑みかけてから、男たちへ視線を向ける。
「あなた方の目的は私でしょう?」
「話が早いな」
男が笑った。
「一緒に来てもらう」
「人質の解放が先です」
「おっと、そうはいかねえ。まずはお前がこっちへ来い」
「では、同時にしましょう」
男はしばらく私を睨んでいたが、やがて舌打ちした。
「……いいだろう。妙な真似はするなよ」
私はゆっくりと少女の方へ歩き、男たちもまた少女を押し出すようにしてこちらへ向かわせる。
「そのまま、まっすぐ歩け」
「ええ」
すれ違う、その直前。
男が少女を護衛たちの方へ突き飛ばし、次の瞬間、別の男が後ろから私の腕をねじ上げた。
護衛たちが割って入る隙すらなかった。
「っ……!」
両腕を後ろへ捻り上げられ、そのまま縄を巻かれる。
続けて、冷たい短刀が首筋へ押し当てられた。
手際がいい。
こういう荒事には、ずいぶん慣れているらしい。
「奥様!」
「動くな!」
男が私の背後から肩を押さえつけ、短刀をさらに喉元へ寄せる。
「一歩でも動いてみろ。この女の首が先だ」
「奥様!」
護衛たちが息を呑む。
助け出された少女も、青ざめた顔でこちらを見ていた。
私は一度だけ目を閉じ、それから静かに息を吐いた。
「……ずいぶん荒っぽいやり方ですこと」
「黙れ。大人しく来い」
狙いは明らかに私。
おまけに、慈善会の内部事情まで知っている。
考えたくもなかったけれど、恐らくこの馬鹿けた作戦の首謀者は──
「動かないでください。皆さん、冷静に」
「このアマッ!」
「いいんですか? 私を殺したら、あなたたちも皆殺しですよ?」
「っ!」
男の腕が、ほんのわずかに強張った。
当然だ。
公爵家の人間に手を出すということが、どういう意味なのか。
そこまでの覚悟もなく、金だけで引き受けたのだろう。
手際はいい。
けれど、覚悟までは足りていないらしい。
「今はその子を連れて、公爵家へ戻ってください」
「ですが!」
「すぐにアシュレイ様へ知らせて」
護衛を見る。
「きっと、あの方なら私を見つけます」
「……」
護衛は悔しそうに唇を噛んだ。
それでも、少女を抱き寄せると強く頷く。
「……必ず、お迎えに上がります」
「ええ。お願いします」
護衛たちは悔しそうにこちらを見ながらも、少女を庇うようにしてゆっくりと後退していく。
やがて、その姿が男たちの向こうへ消えた。
これでいい。
少女は助かった。
アシュレイ様にも、すぐに知らせが届く。
「さて。そろそろ刃を離していただけます?」
「調子に乗るな! 立場を理解していないのか!?」
「そちらこそ。人質は丁寧に扱った方がよろしいですわよ」
こちらが少しも怯まないのが気に入らないのか、男の顔に苛立ちが浮かぶ。
「……何?」
「私に傷でもつければ、困るのはあなた方でしょう?」
男の表情がわずかに強張る。
「依頼主が、最後まであなた方を守ってくださるといいですわね」
「……この女」
「さあ。行くのでしょう?」
男はしばらく私を睨んでいたが、やがて短刀を首元から離した。
「賢明ですわね」
「……連れていけ」
男たちに囲まれ、そのまま用意されていた馬車へ乗せられる。
扉が閉まり、外から鍵のかかる音がした。
ほどなくして、馬車が動き出す。
(……夕食には、間に合いそうにありませんわね)
そんなことを考えながら、私は揺れる馬車の中で静かに息を吐いた。




