第3話 今回は、私の意思で
「セシルとフレデリック様の大事な発表のあとに、あなたがあんな顔で消えるから、どれだけ周りに気を遣わせたと思っているの」
「……私の婚約披露の場でもあったはずですが」
「終わったことを、いつまでも引きずらないでちょうだい」
終わったこと。ずいぶん便利な言葉だと思う。
七年の婚約も、あの場で受けた侮辱も、この人たちにとってはもう片づいた話らしい。
父も低い声で続けた。
「これ以上の恥をさらすな。家のためを思うなら、素直に祝福するべきだったな」
「家のため、ですか」
「どうせお前にはヴァレントン伯爵家は向いていなかった。むしろ、ああして早いうちに話が収まって良かったと思え」
「……左様でございますか」
「何だ、その言い方は」
責めるような目が向けられる。
――どうして私は、こんな人たちにどう思われるかを気にしていたのだろう。
一度どうでもよくなると、目の前の茶番が馬鹿らしく見えた。
「……いえ。よく分かりましたので」
私が無感情にそう答えると、父と母は露骨に眉をひそめた。
「分かったのならいいのよ。セシルも繊細なのだから、今後は余計な刺激を与えないでちょうだい」
「刺激? 事業の引き継ぎは必要かと思いますが」
「余計なことはしないでと言っているの。事業だなんて、どうせ嫉妬で口からでまかせを言っただけでしょう」
昨日、あれほど大勢の前で婚約を破棄されてもなお、私が悪いことになるらしい。
笑ってしまいそうだった。
翌日、一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間、私は息を呑む。
アシュレイ・グレンフォード公爵からだった。
『突然の手紙を許してほしい。
率直に申し上げる。リディア嬢、私と結婚していただけないだろうか』
私はしばらく、その一文を見つめたまま動けなかった。
「……結婚?」
読み返しても、文面は変わらない。
『昨夜の君を見て、確信した。
理不尽に軽んじられながら、君は品位を失わなかった。
だが、強くあろうとする人間が傷ついていないはずもない。私は、君があのような場所へ戻るべきだとは思わない。
結婚の返事を急がせるつもりはない。
ただ、君があの家を離れたいと望むなら、身を落ち着ける場所はすぐに用意できる。
そのうえで願えるのなら、君に私の伴侶になってほしい』
胸の奥が、静かに熱くなった。
飾りのない言葉なのに、不思議なほど真っ直ぐだった。
ノックもなく扉が開いたのは、そのときだった。
「リディア、少しよろしいかしら」
母が入ってきて、私の手元の便箋に目を留める。
「……それ、どなたから?」
「グレンフォード公爵閣下です」
「公爵閣下?」
母の表情が変わった。
「何のご用件で?」
「求婚されました」
「……は?」
母の手から扇が滑り落ちそうになる。
「きゅ、求婚ですって? どうしてあなたに?」
「理由は手紙に書かれております」
「そんな、まさか……」
信じられないと呟きながら、母はひったくるように手紙を見ようとした。
私は、するりと便箋をたたんで避ける。
「お見せする必要はありませんわ」
「あなた、何を──」
「私宛の手紙ですもの」
昼には父も知った。夕方には当然のようにセシルも知った。
そして、屋敷の空気は驚くほどあっさりと変わった。
「リディア、お前は昔から慎み深くて良い娘だった」
「そうよ。落ち着いたところが、むしろ公爵様には好まれたのかもしれないわね」
昨日まで私を家の恥のように扱っていたのが嘘のようだった。
セシルも可愛らしく微笑んだ。けれど、目の奥だけは少しも笑っていない。
「公爵家との縁が結べれば、家の格も一段上がる」
「北方との繋がりもできますものね」
「支度金の話も早めに進めるべきだな」
話題は、グレンフォード家がエヴァンズ家にもたらす利益ばかりだった。
どうやら私が公爵家へ嫁ぐことそのものより、その婚姻で家が何を得られるかの方が重要らしい。
本人を蚊帳の外に、よくぞそこまで盛り上がれるものだ。
「返事はまだしておりません」
「何を迷う必要がある!」
父が身を乗り出す。
「グレンフォード公爵家だぞ。これ以上ない縁談ではないか」
「そうよ。ありがたく受けるべきだわ」
「家のためにも、必ず受けなさい」
「家のため?」
私が聞き返すと、父は不快そうに眉をひそめた。
「当然だろう。お前はエヴァンズ家の娘だ」
「昨日の時点では、私は家の恥だったはずですが」
「リディア!」
母が甲高い声を上げる。
「そんな言い方をするものではありません。私たちはあなたの将来を思って──」
「将来を?」
「そうよ。公爵家に見初められるなんて、普通なら望んでもない幸運なのよ」
その声は優しいふりをしていたが、その実、必ず受けろと急き立てているだけだった。
「ご心配なく」
私は薄く笑みを浮かべる。
「今回は、私の意思で決めます」
「リディア!」
「私は一度、家の都合で婚約し、家の都合で切り捨てられました。次まで家の都合で決められるつもりはありません」
――アシュレイ様からの求婚は驚いた。
正直に言えば嬉しい。
あの人の言葉は、ちゃんと私を見ていた。
だからこそ、軽い気持ちでうなずくわけにはいかなかった。
結局、その日のうちに私は返事を出さず、まず一度お会いして話したいと公爵家へ手紙を送った。
***
三日後、王都のグレンフォード公爵邸を訪れた。
通された応接間は、上質なのに嫌味がなかった。
豪華さを誇るというより、住む人間が余計なものを好まないのだと分かる部屋だった。
やがて現れたアシュレイ様は、夜会のときと同じく無駄のない立ち姿のまま、私の向かいに腰を下ろした。
「来てくれて感謝する」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
挨拶を終えると、私はすぐに本題へ入った。
「率直にお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
「なぜ私に求婚なさったのですか」
アシュレイ様は、一切視線をそらさなかった。
けれど、すぐには答えなかった。
「うまく言える自信はない」
「……」
「それでも聞くか」
「はい」
短い沈黙のあと、アシュレイ様は静かに口を開いた。




