第2話 その夜、私は休むことを許された
振り向くと、階段脇の柱にもたれるようにして、一人の男がこちらを見ていた。
黒髪に、夜を思わせる濃い瞳。感情の薄い端正な顔立ち。
王国北方を治める、アシュレイ・グレンフォード公爵。
いつから見ていたのだろう。
その視線は冷静で、ひどく温度が低く見えた。
「夜会の場だ。これ以上は、伯爵家の品位に関わる」
その声に広間が静まり返る。
けれど次の瞬間、セシルがハッとしたように顔を上げた。
目元に残った涙を押さえ、怯えたように、それでいて可憐さを崩さない仕草でアシュレイ様を見上げる。
「公爵閣下……。わ、私は……」
昔からセシルは、ああいう顔で欲しいものを手に入れてきた。
けれどアシュレイ様は、セシルには一瞥もくれなかった。
取り合う価値もないとでもいうように、そのまま私のほうへ歩み寄り、
「こちらへ」
その声は低く静かだったのに、逆らえない強さがあった。
「失礼いたしました」
私は深く一礼した。
アシュレイ様の差し出した手を取り、壇を下りる。
もうこの場にいる意味はない。
背中にいくつもの視線が刺さる。
でも振り返らず、そのまま大広間を抜けて中庭へ出た。
夜風が頬に触れた瞬間、ようやく息ができるようになった気がした。
「……やっと、終わった」
思った以上に疲れていた。
それでも、不思議と清々しい気持ちだ。
私は七年間、ヴァレントン伯爵家に相応しい婚約者でいようと努めてきた。
礼儀作法も、帳簿も、社交も、領地経営の勉強も。彼の足を引っ張らないように、少しでも支えになれるようにと覚えたことばかりだった。
けれどフレデリックが欲しかったのは、意見を言う婚約者ではなかった。
甘えて、頼って、褒めてくれる女だった。
「ようやく、解放してくれたってところかしらね」
「同感だ」
低い声が、すぐ傍から落ちてきた。
振り返ると、アシュレイ様が静かにこちらを見ていた。
「お見苦しいところをお見せしました」
「見苦しくはなかった」
「ですが……」
「泣かなかったからといって、平気だったとは思わない」
息が止まった。
弱みを見せたつもりはない──それでも、私が平気ではないと見抜く声だった。
「なぜ、このような事を?」
「……見ていて腹が立っただけだ。あの場で君だけが、最初から最後まで一人だった。君が抱えさせられていたものの重さくらいは、見ていれば分かる」
「……」
「少なくとも、娘にする扱いではない」
その一言は、胸の奥に静かに沈んでいった。
私が返す言葉を見つけられずにいるうちに、アシュレイ様は外套を脱ぎ、私の肩へそっと掛けた。
「……ありがとうございます」
「礼は不要だ」
「ですが……」
「今夜、君をあの家に戻す気はない」
低い声は静かなのに、有無を言わせない強さがあった。
「馬車を回してある。王都の別邸だ。侍女もいる」
「……どうして、そこまで?」
「今の君を、あの家族のもとへ返したくない」
あまりにもまっすぐで、返す言葉が見つからなかった。
実家へ戻れば、また父と母が待っている。
何事もなかったように、妹を思いやれと諭されるだけだろう。
──想像するだけで、うんざりした。
「……少し休んでから、考えてもよろしいでしょうか」
「構わない」
短い返事だった。
けれど、それで十分だった。
「……では、お言葉に甘えます」
私がそう言うと、アシュレイ様は小さく頷いた。
余計なことは何も言わない。ただ当然のように隣へ並び、歩幅を合わせてくれる。
馬車の中でも、アシュレイ様はほとんど何も聞かなかった。慰めの言葉を並べることもなく、ただ静かに向かいに座っていた。
その沈黙が、今の私にはありがたかった。
***
その夜は、アシュレイ様の厚意に甘えて王都の別邸で休ませてもらった。
勧められるまま湯を使い、柔らかな寝台に身を沈めた途端、張りつめていたものが切れたように眠りに落ちた。
誰にも責められず、何も求められないまま眠ったのは、ひどく久しぶりだった。
翌朝、目を覚ますと、侍女は困ったようにこう言った。
「アシュレイ様からは、気が済むまでお休みいただくようにと。むしろ、お引き止めしろと仰せつかっております」
「お気持ちはありがたいです。ですが、やらないといけないことがあるのです」
一晩休んだおかげで、頭も気持ちも昨日よりずっと冷えていた。
だからこそ分かった。何もかも向こうの都合で決められたまま終わるのは、認められない。
その日のうちに、私は実家へ戻った。
案の定、屋敷の空気は冷え切っていた。
帰るなり応接間へ通され、労わりの言葉ひとつなかった。
──やっぱり。
この家は最初から、私の都合など気にしていないのだ。
「ずいぶん勝手なことをしてくれたわね」
最初に口を開いたのは母だった。




