第17話 外へ出る夜
侯爵家から夜会の招待状が届いたのは、数日前のことだった。
「侯爵家から夜会の招待が来ている」
そう告げられたとき、私はすぐには返事ができなかった。
「無理にとは言わない。だが、君を隠したままにしておくつもりもない」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
アシュレイ様の隣に立つのなら──公爵夫人として、いずれ夜会への参加は避けられない。
そのときが来たのだと思った。
「……参りますわ」
返した声は思ったよりも静かで、けれど迷いはなかった。
***
夜会当日。
公爵家の屋敷で支度を整えながら、私は鏡の前でひとつ息をついた。
他家の夜会へ、公爵夫人として出るのはこれが初めてになる。
深い青のドレスは、飾り立てすぎないのに仕立てがよく、動くたびにやわらかな光を含む。
グレンフォード公爵家の色に寄せたものだと聞いたときは少し気後れもしたけれど、袖を通してみれば不思議と落ち着いた。
派手さはない。
けれど鏡の中の私は、少なくとも頼りなくは見えなかった。
「きついところはありませんか」
背後で最後の確認をしてくれていた侍女が、そっと問う。
「大丈夫ですわ。ありがとう」
「本当によくお似合いです」
そう言われて、私は鏡の中の自分をもう一度見た。
夜会へ出ること自体は、初めてではない。
けれど今夜は、あの頃とは意味が違っていた。
以前の私は、誰かの隣に置かれる側だった。
家の都合に合わせて着飾り、求められる振る舞いを崩さず、ただその場を乱さずに終える。それだけでよかった。
けれど今は違う。
呼ばれたから立つのではない。
今夜は、自分でここへ来ると決めていた。
「リディア」
振り向くと、扉のところにアシュレイ様が立っていた。
黒を基調とした正装に身を包んだ姿は、いつも以上に隙がない。
けれどその目は、私の顔を見た途端にほんのわずかやわらいだ。
「支度は済んだか」
「はい」
「……よく似合っている」
一拍置いて告げられた言葉に、返事が少し遅れた。
「ありがとうございます」
「無理はしなくていい。だが、君が隣にいてくれると助かる」
飾りのない言い方だった。
それなのに、その一言で肩の余計な力が抜ける。
「でしたら、お役に立てるよう努めますわ」
「……そうやって、すぐ役に立とうとするのだな」
「それは、よくない意味でしょうか」
「いいや、とても頼もしい」
アシュレイ様はそれ以上続けず、私へ手を差し出した。
「行こう」
「はい」
私はその手に自分の手を重ねた。
***
今夜の夜会は、王都でも古くから続く侯爵家の主催だった。
広間へ続く回廊には明かりが途切れず、磨き上げられた床へ人影が滑るように映っている。楽団の音はやわらかく、華やかなのにうるさくない。
けれど扉の前まで来たところで、私はわずかに耳へ届いた声に気づいた。
「……あの方が来るのですって」
「婚約披露であんな目に遭われたという」
「けれど今はグレンフォード公爵夫人でしょう」
「本当に? あんなことがあって、よく出てこられたものねえ」
ひそひそと交わされる囁きは、悪意ばかりではなかった。
好奇心と、憶測と、値踏み。
どれも社交の場では珍しくない。
あの日も、似たような声はたしかにあった。
あのときは私自身を見世物にするための悪意ある会だった。
何を返したところで、あの場がこちらに傾くことはなかっただろう。
今夜は違う。
そう分かっていても、指先にわずかに力が入る。
そのとき私の手に添えられた指先へ、静かに力が加わった。
見上げると、アシュレイ様がこちらを見ていた。
「寒いか」
「いいえ」
「そうか」
短い問いだった。
けれど、寒さの話ではないのだと分かった。
「行けますわ」
「ああ」
案内の声が上がり、私たちは広間へ足を踏み入れた。
ざわめきが、ほんの一瞬だけ薄くなる。
視線が集まる。
それでも、以前のような居心地の悪さはなかった。
アシュレイ様は私を先にも後ろにも置かず、隣に並べたまま進んでいく。
それだけで、広間の空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
「グレンフォード公爵様、公爵夫人様。お待ちしておりました」
主催の侯爵夫妻が笑みをたたえて迎えに出る。
「お招きありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただき光栄ですわ」
侯爵夫人は私を見て、ほっとしたように目元をやわらげた。
「今夜はお顔色もよろしいようで、何よりですわ」
「ご心配をおかけいたしました」
「まあ、あのようなことのあとですもの。けれど、今夜のあなたを拝見して安心いたしましたわ」
慰めるでも持ち上げるでもない、ほどよい温度の言葉だった。
受け答えをしている間にも、周囲の視線の向きが変わっていく。
取り乱す必要も、ことさらに背筋を張る必要もなかった。
ひとつずつ言葉を返していくだけで十分だった。
「アシュレイ、お前がこうして伴侶を連れて社交へ出る日が来るとはね」
落ち着いた女の声に振り向くと、年の頃五十を少し過ぎたくらいの婦人が、扇を手にこちらを見ていた。
以前、アシュレイ様から名を聞いていた伯母君――クラリッサ様だろう。
「伯母上」
「ご無沙汰しております、クラリッサ様」
私が一礼すると、クラリッサ様はまっすぐ私を見たあと、ふっと口元をゆるめた。
「ええ、ようやくお会いできたわね。手紙だけでは分からないものだわ」
「手紙、ですか?」
「この子は昔から、最低限のことしか書かないのよ。夫人を迎えたときだって、『落ち着いたら顔を見せる』の一行で済ませたのだから」
思わずアシュレイ様を見ると、彼はほんの少しだけ視線を逸らした。
「……事実だ」
「事実でも、それだけでは足りませんわ」
私がそう言うと、クラリッサ様はくすりと笑った。
「まあ、なるほど。これは確かに、ただ隣へ置いておくだけではもったいない方だこと」
その声には、値踏みよりも安堵の方が強く滲んでいた。
「この子、昔から人を頼るのが下手なのよ。表も裏も、気づけば自分で抱えてしまうの」
「伯母上」
「だって本当でしょう。周りが声をかけても、すぐ『問題ない』で済ませるのだから」
反論がないあたり、図星なのだと分かった。
「けれど今夜は違うわね」
「……何がでしょう」
「誰かを頼ることを、ようやく覚えた目だわ」
その言葉に、私の方が返事に詰まった。
クラリッサ様はそれ以上踏み込まず、扇を閉じて軽く肩をすくめる。
「年寄りの感想よ。気になさらないで」
そう言って離れていく背を見送りながら、私は胸の内をうまく言葉にできなかった。
「……伯母様は、よくご覧になっていらっしゃるのですね」
「昔からだ」
「少し照れていらっしゃいます?」
「照れていない」
「そういうことにしておきますわ」
アシュレイ様の目元が、ごくわずかにやわらいだ。
それを見ただけで、私も口元が緩みそうになる。
しばらくして侯爵夫人に勧められるまま、私は何人かの婦人たちと話をすることになった。
露骨なことを言う人はいない。
それでも会話の端々に、こちらを量るような気配はあった。
「グレンフォード公爵領では、この冬、医療院への支援が手厚かったと聞きましたわ」
「ええ、見直すべきところがいくつかございましたの」
「まあ。それはご苦労も多かったでしょうね」
「わたくし一人でできることではありませんでしたわ。皆さまに力を貸していただいた結果です」
そう返すと、一人の婦人が感心したように目を細める。
「まあ。ご自分の手柄になさいませんのね」
「わたくし一人の力でできることなど、限られておりますわ」
「それでも、そう言える方は案外少ないものです」
褒められているのだと分かったけれど、気恥ずかしさが先に立った。
いつの間にか、婦人たちの視線も言葉も自然と私へ集まっていた。
そのとき、一人の婦人が輪の外からこちらへ歩み寄ってきた。
扇をひらいたまま口元を隠し、面白いものでも見つけたような目で私を見る。
「エヴァンズ家の春の慈善会、今年は少し揉めているようですわね」
──その言い方だけで、善意からの話題ではないと分かった。




