第16話 【SIDE:フレデリック】こんなはずではなかった
──フレデリックの目の前には、うず高く承認書が積まれていた。
春の催しに向けた手配。共同事業の清算書。
数量の確認、支払いの時期、納品の順。どれも似たような紙に見えて、そのくせ厄介なものばかりだった。
すべて、承認印が要るとして回ってきた書類だ。
その一枚ごとが、いまや厄介事の火種になりつつある。
書類の山を前に、フレデリックは恨めしく思った。
――どうして、こんなことになったのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
去年の今頃、自分はこんな紙の山を前にしてはいなかったはずだ。
はじまりは、あの日だったのかもしれない。
リディアとの婚約が終わり、代わりにセシルを迎えることが決まった夜。
今になって思えば、綻びはあの日から始まっていた。
***
厄介な婚約は片づいた。
静かで愛想のないリディアではなく、華やかで愛らしいセシルが自分の隣に来る。
ようやく、あるべき形に収まった。
その頃のフレデリックは、本気でそう思っていた。
最初に妙だと思ったのは、その数日後のことだった。
執務室へ顔を出したローレンスが、珍しく少し言いにくそうな顔で書付を差し出してきたのだ。
「婚約が解消されましたので、これまでリディア様にご確認いただいていた分を、このまま同じようにはお上げできません。今後はどちらへ回すべきか、ご指示を」
「……何の話だ、それは?」
「エヴァンズ家と合同で進めている衣料支援の件でございます。春の催しに合わせて、仕立て上がった分から順に各所へ回す手筈でしたが、数量と納期の確認が止まっております。リディア様からの引き継ぎでは――」
ローレンスが何か説明していたが、そこから先はほとんど耳に入らなかった。
そんなものを、自分が見たことなどなかった。
情けない、まるでリディアに頼り切りではないか。
ヴァレントン伯爵家の名が泣くというものだ。
「ローレンス、リディアはもうこの家にはいない。今後、その手の書類はこちらへ持ってこい」
「……フレデリック様へ、でございますか」
「そうだ」
「かしこまりました」
ローレンスは、訝しげな顔をしたが、黙って頷いた。
──書類の確認など、ちょいちょいと見て、判子を押せばいい。
その頃のフレデリックは、そう軽く考えていた。
***
数日もしないうちに、フレデリックはうんざりし始めていた。
せっかくセシルとの華やかな日々が始まるというのに、周囲があまりに煩わしかったのだ。
「フレデリック様、こちらの書類にお目通しを」
「わずらわしい。その程度のものも自分で判断できないのか」
「はっ。ですが、先日は書類を持って来いと――」
「うるさいぞ、口答えをするな。どこまで上げるかを見極めるのも、お前の役目だろう」
フレデリックは、そうローレンスを叱り飛ばした。
「フレデリック様、早くいらして。お茶が冷めてしまいますわ」
「ああ、すぐ行く」
「まあ、お仕事ですの? 本当に大変ですこと」
「細かなことばかり持ち込まれて、うんざりする」
「お気の毒ですわ。そういうことこそ、下の者が整えるべきですのに」
セシルが袖を引けば、それだけで気が逸れた。
甘えるように身を寄せられ、やわらかな声で名を呼ばれると、さっきまでの苛立ちも薄れていく。
あの無愛想な女の代わりに、胸の中にセシルがいる。
それだけでこの未来を選んだ甲斐がある。
「これからは下で整えてから上げろ。未整理のまま持ってこられても困る」
「……かしこまりました」
「そのような些事は、下の者で整えればいい。私まで細かなことに煩わされていては話にならん」
「…………かしこまりました」
その頃のフレデリックは、本気でそう思っていた。
細かなことにいちいち足を取られるのは、ひどくみっともない。
セシルの隣に立つ自分は、もっと華やかで大きなことだけ見ていればよいのだと。
──綻びは徐々に広がっていた。
そうして、その日は訪れた。
「慈善事業の件で、予定していた分が不足しております。どのように動かしましょう」
「そんなものまで私に聞くな。ローレンス、お前が対処しろ」
「その件は、こちらだけでは決められません。先日ご相談した際も、『すべては私に任せておけ』とおっしゃっていましたが」
「なに? そんな話は知らんぞ」
「……書面には、すでに残っております」
ローレンスの声は静かだった。
その静けさが、かえってフレデリックを苛立たせた。
これは、相当怒っているのではないか?
ローレンスの冷ややかな眼差しを見て、フレデリックはようやくわずかばかりの危機感を持つ。
「ええと……、なんの書類だったっけ?」
「……一週間ほど前に判を押されたエヴァンズ家合同の慈善事業についての確認書でございます」
「なるほどなるほど……。…………なるほど?」
頷いてみせたものの、フレデリックはまるで思い出していなかった。
面倒なことになった。
こういうときこそ、リディアの役目だったはずだ。
「だいたいなぜ、慈善事業の話がこちらに回ってくる? もともとはリディアの役割だっただろう?」
「……リディア様は、もはやヴァレントン伯爵家の方ではございません。いずれ公爵夫人になられるお方に、今さら気軽に連絡を取ることなどできません」
「リディアが公爵夫人? はっ、それこそ何かの間違いだろう。あんな可愛げのない面白くない女、俺以外にもらい手がいるはずもない」
「そうですわ。あんなの、なにかの間違いに決まっておりますの」
「ああ、あれと比べてセシルは可愛らしい。婚約破棄は正しかったはずなんだ」
フレデリックは、セシルの腰に手を回す。
セシルもフレデリックに胸をあてて、愛らしく微笑んでいた。
見つめ合って二人の世界に入りそうな二人を見て、こほんと苛立たしげにローレンスが咳をする。
「それで、こちらの件はどのように対応すれば──」
「知らん、そちらで対応しろ。そのような些事を、いちいちこちらに持って来るな」
「……かしこまりました」
黙って一礼して、ローレンスは出ていく。
その顔はひどく冷えていたが、フレデリックは気にも留めなかった。
***
それから数カ月が過ぎた。
公爵家へ押しかけ、エヴァンズ伯爵家が大変なのだから戻って後始末を手伝えと迫った、あの騒ぎからも一月ほどになる。
あのときのリディアの冷えた目を思い出し、フレデリックは顔をしかめた。
まるで赤の他人でも見るような目だった。
おまけに、アシュレイ公爵の隣にいたリディアは、一度も自分に見せたことのない顔をしていた。
安心しているような、寄りかかっているような、あの顔がひどく癪に障った。
──まったく、どこまでも忌々しい女だ。
ヴァレントン伯爵家の空気は、相変わらず悪い。
セシルが毎日のように遊びに来るのは癒やしだったが、問題もあった。
「フレデリック様~! このドレスなんて可愛いと思いませんこと? ベルローズ工房の最新作ですって。流行の最先端は今はこれですのよ」
「ああ、可愛らしいね。セシルによく似合うと思うよ」
「ですよね! お姉さまと違って、わたくしにはどのドレスも似合いますの」
セシルは、顔を合わせるたびに新しいドレスを欲しがった。
いくらヴァレントン伯爵家が北部の貿易で稼いでいるとはいえ、毎日のようにドレスへ散財していてはたまったものではない。度が過ぎると父にも咎められ、ヴァレントン伯爵家の金を何だと思っているのだと怒鳴られたこともある。
もっとも、やんわりとたしなめたら「フレデリック様は、わたしくにドレスが似合わないとおっしゃるの?」などと目に涙をためていたっけ。
「ところで、バーミリオン商店との取引についてなのだが──」
「フレデリック様。わたくし、難しいことはよく分かりませんの」
おまけにセシルは、一切の事業にかかわるつもりがない。
少しでも相談しようとしたら、小首を傾げて「そんなことより、新しいドレスの話を……」ばかりだ。
――こんなとき、リディアならどうしていたのか。
ふとそんな考えが頭をよぎり、フレデリックは苛立たしげに首を振った。
あの婚約破棄は正しかったのだ。
今、隣にセシルがいて、それが何よりの幸せなのだ……そのはずだ。
「慈善事業に関わっていた者が、二人、辞めたいと申し出ております」
ある日、執務室でローレンスが事務的な口調でそう言った。
「何だと? この忙しい時期に、冗談だろう?」
「いいえ。この件はすでにご相談しております。新しい人員を手配するとも申し上げました」
「…………後で確認しておこう。気が弛んでいるのじゃないか?」
使用人には、十分な給料を与えているはずだ。
人員管理ぐらいローレンスの方でやっておくべきだろう。
「現場の疲弊はもう限界でございます」
そう思っていたフレデリックだったが、ローレンスは苛立ちをあらわにそう言った。
「なんだと?」
「書類は何度も差し戻され、そのたびに指示が変わります。申請はろくに通らず、面倒なことはすべて現場に丸投げされる。……リディア様が間に入っていた頃は、こんなことはありませんでした」
「ローレンス、その名を出すな」
フレデリックは、苛立ちのままそう声をあげる。
リディアにできて、フレデリックには出来ない──そんなことが、あってはならないのだ。
「書類にはきちんと判を押しているだろう。それで何の問題がある?」
「…………失礼しました。差し出がましいことを申し上げました」
まるで納得していない様子で、ローレンスは黙って頭を下げた。
その日も、承認を求める申請書は届く。
部屋の隅では、まだ新しい承認書が積まれている。
見ればどれも似たような紙にしか見えない。
それでも判を押せば何かが動き、人が辞める何かに繋がっていくのだ。
「…………くそっ」
フレデリックは、書類に目を通そうとして舌打ちをつく。
「やってられるか」
申請書を机の端へ放りやる。
結局、フレデリックが選んだのは問題の先送りだった。
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