題13話 止まらない場所のために
読みやすさのため、章分けしてみました!
※ 本編に変更はありません
「これ以上、帳面を増やす余裕はありません」
備蓄庫の担当者が、ぴしゃりとそう言った。
事務室の空気が、一気に張り詰める。
「増やすつもりはありません。書く手間は、むしろ減らせると思います」
私がそう言うと、相手は怪訝そうに顔を上げた。
「書く手間を減らす。そのようなことが可能なのか?」
「はい。不可能ではないと思っております」
私は紙を広げて説明を始める。
「まずは、急ぎの情報だけが集まる帳面を一つ用意したいのです。増やすと言っても、複雑なものではありません」
「……結局、帳面を増やそうというのか。何のためだ?」
「緊急時の流れを、あとから無理なく辿れるようにしたいのです」
私の説明に、備蓄庫の担当者は渋い顔をしていた。
「……そんなことが可能なのですか?」
一方、イルゼの問いには、さきほどまでとは違う熱があった。
疑うというより、確かめずにはいられないという響き。
「今は、病棟で残る記録と、備蓄庫で残る記録と、事務で拾う記録が、それぞれ別の形になっていますよね」
「ええ、その通りです」
「ですから急ぎのときは、あとから記録を戻す形になるせいで、それぞれが綺麗に揃わないまま進んでいた。それをイルゼさんが、一つずつ突き合わせて申請書にまとめていらした。そうでしたわよね?」
イルゼが、小さく頷く。
「……記録そのものより、あとから合わせ直す手間の方が、今は重くなっているように見えました」
「ええ。否定はできません」
「ですから、その役目を少し軽くしたいのです」
私は、紙の上を指先で押さえる。
「急ぎのときに先に物を動かすのは当然です。そこを止めるつもりはありません。ただ、後で帳面へ戻すときに、戻す先を一つにしたいのです」
「なるほど……、戻す先を」
「はい。そこだけ見れば最低限の流れが追えるようにしたいのです」
イルゼが納得したように頷いた。
一方、備蓄庫の担当者が腕を組んだまま不機嫌そうに言った。
「事情は納得しました。イルゼ殿の手間が減るのは結構です。ですが、そのために今度はこちらが書きものに追われるのでは意味がない」
「もっともですな」
ヴェルナー院長が頷いた。
「今の形も、好きでこうなったわけではない。そこまで手が回らないから、どうにかこの形で繋いできたのです」
私はそのまま言葉を継いだ。
「最初に説明した通りです。書く量はほとんど増えません」
「……だが、新たな帳簿を増やすという話だろう。その書き方を覚える手間だけで、明らかに現場の負担になる」
「そこはおっしゃる通りです。ですが最小の情報だけを記す帳面があれば、今ばらばらになっている書き方も、少しずつ揃えていけるはずです。そうなれば、いずれは手間も減らせると考えております」
「たしかに、一理ありますな。どうしても帳簿には、それぞれの担当者ごとに癖が出ておりましたからな……」
私の言葉を受けて、ヴェルナー院長がそう苦笑した。
「最小の情報だけを記した帳面を作ることで、いずれは医療院全体の帳面も簡略にしていく。そういうことですかな?」
「理想としては、そうできればと思っております」
ヴェルナー院長は、なにかを考え込むように顎に手を当てた。
「最小の情報というのは?」
「たとえば、品目名と数、それに時間です。それだけでも、何がどれだけ動いたかは追えます」
「だがそれだけでは、取り扱う上での注意が伝わらないではないか」
「薬品なら担当者が見れば十分に伝わります。大切なのは余計な情報を増やすことではなく、必要な情報が散らばらないこと──後で追うには、その方がずっと都合がよいのです」
私はそう断言する。
帳簿を合わせる側から見れば、それだけでも十分に意味がある。
「なるほど。たしかに興味深い」
けれどヴェルナー院長は、そこで頷いて終わらなかった。
「ですが……、仮に採用するとして、どうしても混乱は避けられますまい」
今度の問いは、先ほどよりも真っ直ぐだった。
「ですから最初から全部は動かしません。まずは一部の薬液と包帯布から導入してみたいのです」
「……なぜ、その二つを?」
「一番動きが多く、揺れも出やすいからです。そこが回れば、他へ広げる目安になります」
「なるほど。それなら筋は通りますな」
「無理が出るようなら、そこで止めます。方法を見直すべきです」
たしかに今の言葉は、届いている手応えがあった。
「……理屈は分かります」
そう切り出したのは、備蓄庫の担当者だった。
けれどその顔には、まだ完全に納得した色はない。
「ですが、大きくやり方を変えることになります」
「……」
「こういうものは、始めるより止められる時の方が厄介です。上が否と言ったら、その混乱を引き受けるのは我々です」
その言葉に、ヴェルナー院長も小さく頷いた。
──そこを案じられるのは、当然ですわね。
私は一度だけ息を整えた。ここで言葉を濁せば、ほどけかけた空気は、また固まってしまう。
「この件は、すでに公爵様にもお話ししております」
その瞬間、備蓄庫の担当者の目がわずかに見開かれた。
ヴェルナー院長も、はっきりと顔を上げる。
「公爵様に?」
「はい。まずは一部の薬液と包帯布から試してよいと、お許しもいただいております」
事務室が静まり返る。
先ほどまで渋い顔をしていた備蓄庫の担当者も、今度は何も言わなかった。
「万一、問題が出た場合は、わたくしが責任をもって間に立ちます」
「奥様が、ですか」
備蓄庫の担当者が、腕を組んだまま低く問う。
「現場の不都合まで?」
「そのために、先にお話ししたのです」
私は静かに答えた。
「いくら良くしたいと思っていても、それが現場の重荷になるのであれば間違っています。ならば、そこはわたくしが引き取らねばなりません」
「……」
「皆さんに強要するつもりはありません。ですが力を貸していただけると嬉しいです」
そうして私は、真っ直ぐに頭を下げた。
深々とした沈黙が広がる。
「そんな──やめてください、次期公爵夫人ともあろう方が」
最初に口を開いたのは、イルゼだった。
ヴェルナー院長と改めて目があった。
その目つきは、先ほどまでよりずっとやわらいでいた。
「……まったく、リディア様には叶いませんな」
ぽつりと、ヴェルナー院長が言った。
「え?」
「普通なら医療院の帳簿を眺めて、予算を削るか増やすか命じて終わりでしょう」
「……」
「ですが、あなたは違った。現場を見たうえで、どこが重く、どこなら変えられるかを考えておられる」
思いがけない言葉だった。
イルゼが、小さく目を伏せる。
「わたくしも、そう思います」
「イルゼさん……」
「最初は、また外から帳簿だけ見て、増やせ、減らせと言われるのだと思っておりました」
「……そのような無責任なことは、いたしません」
「ええ……。まさか、そこまで見てくださる方がいるとは──正直に申しますと、少しほっといたしました」
ヴェルナー院長も、おもむろに口を開く。
「そこまで話が通っているのなら、こちらとしても反対ばかりはできませんな」
「ありがとうございます」
「……ただし、面倒が増えたと思えば、その時ははっきり申し上げます」
「ぜひそうなさってください。そのための期間ですから」
ヴェルナー院長は深く頷いた。
「分かりました。では、まずはその二つだけ試してみましょう。一部の薬液と包帯布から。戻す先は一つにし、書き方はリディア嬢の示した形に揃えること」
「ありがとうございます。無理が出ましたら、どうか遠慮なくご相談ください」
ようやく事務室の空気が少しやわらいだ。
そうして今後の方針が決まり、今日は解散となった。
「リディア様」
人がいなくなったあと、イルゼが小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。……正直に申しますと、このやり方は、どこかで限界がくるとは思っておりました」
その静かな言葉が、かえって胸に落ちた。
「ですから、今回のお話は……ありがたかったです」
「そう言っていただけたなら、よかったです」
イルゼはそこでようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
その様子を見て、私はもう厄介な部外者ではなく、同じ問題に向き合う相手として受け入れてもらえたのだと感じた。
「イルゼさんは、グレンフォード公爵領に必要な方です。これからもよろしくお願いします」
「そのお言葉だけで、今夜は少し眠れそうです」
そう言葉を交わし、私は医療院をあとにした。




