第12話 見て終わりにはしたくない
医療院から戻ったあと、私は自室の机に紙を広げたまま、しばらく動けずにいた。
見えてしまった以上、放ってはおけない。
けれど「帳簿に情報をすべて載せてください」と綺麗事を口にしたところで、現場はきっと動かない。
そもそもあの現場に、そんな余裕はないのだから。
「……難しいですわね」
一度、問題を紙に書き出してみることにした。
書き方の揺れ。
戻し先の曖昧さ。
病棟、備蓄庫、事務と別々に残される記録。
急ぎのときは先に物を動かし、あとで事務の方で補完するやり方。
「……まずは最低限ですわね」
小さくつぶやき、私は紙の上の文字を削った。
すべてを一度に解決する必要はない。
そんな都合のよい手立てなど、あるはずがないのだから。
記録の書き方は、最低限だけ揃える。
急ぎで口頭対応したものは、あとで戻す帳面を一つに決める。
備蓄庫・事務・病棟で照らし合わせる項目も、必要な分だけに絞る。
そうすれば今より帳面が増えることはない。
むしろ減らせる余地もあるはずだった。
少なくとも、あとから人を捕まえて「あれはどうなっていたか」と聞いて回る手間は減らせる。
──そこまで書いたところで、扉が叩かれた。
「入ってもよいか」
顔を上げる前に、誰だか分かる声だった。
「どうぞ」
入っていらしたアシュレイ様は、私の机の上に広がった紙を見て、少しだけ目を細めた。
「まだ考えていたのか」
「はい。見てしまいましたので……」
「そうか」
短い返事のあと、アシュレイ様は机の向かいではなく、私のすぐ隣へ来られた。
そのまま紙へ目を落とす。
「医療院は、どうだった」
「思っていた以上に、ぎりぎりで回っておりました」
「……」
「帳簿の数字以前に、人の頭の中にしかない情報が多すぎるのです。イルゼさんがいらっしゃるから、どうにか止まらずに済んでいるのだと思います」
「一人に寄りすぎている、か」
「はい」
答えながら、私は紙の端を指で押さえた。
「誰かが知っているから回る形では、あまりに危ういですわ」
「だから、新たな仕組みを考えていたのだな」
「ええ」
アシュレイ様の声には、問い詰める響きはなかった。
ただ私が見てきたものを、そのまま受け止めてくださっているのが分かる。
「それで、何を考えている」
そこで初めて、私は書き出した紙を整えた。
「大きく変える必要はありません。必要なのはちょっとした工夫です」
「聞かせてくれ」
アシュレイ様に促され、私は順に話し始めた。
「記録を増やすのは、かえって負担になります。むしろ減らしたいのです」
「減らす?」
「はい。今は病棟、備蓄庫、事務で別々に記録を残して、後でそれを一つにまとめていますでしょう」
アシュレイ様は口を挟まず、私の言葉を確かめるように静かに頷いた。
「だから緊急時には、申請や記録があちこちに散ってしまう──まずは、この戻す先を一つにしたいのです」
「記録を辿る先を、絞るのだな」
「ええ。急ぎのときに口頭が先になるのは仕方ありません。けれど、その記録を残す先が決まっていれば、追う場所は今より少なくできます」
「……なるほどな、理にかなっている」
アシュレイ様が頷くのを見て、私は小さく息をつく。
「それから、照らし合わせる項目も絞りたいのです。全部を細かく合わせるためではなく、あとから同じ場所で追えるようにするために」
「書き方も揃える、と」
「はい。誰か一人しか読めない形ではなく、あとから見た人が誰でも追える形にしたいのです」
アシュレイ様は、しばらく黙って紙を見ておられた。
その沈黙は、もう怖くなかった。
今はただ、考えてくださっているのだと分かる。
「よいと思う」
「……本当ですか」
「ああ。無理を押し付けようとしていないのがいい」
その言葉に、胸の奥が少しやわらいだ。
「任せていただいたのですもの。見て終わりにはしたくありませんでした」
「そうして返そうとするところが、君らしい」
そう自然に言われて、私は言葉を失った。
そう言うアシュレイ様の横顔は、あまりにも穏やかで。
「……そうでしょうか」
「ああ。見てきました、困っていました、で終えるつもりなら、君は今ここで紙など広げていないだろう」
「……」
「だから君に任せた」
静かな言い方なのに、ひどく胸にしみた。
「役に立ちたいのです」
「私のか」
「……はい」
少しだけためらったけれど、誤魔化したくなかった。
「せっかく見てきてほしいとおっしゃってくださったのに、見て終わるだけでは嫌でした」
「見て終わるだけでは嫌、か」
「はい」
「なぜだ」
「あなたの期待に、きちんと応えたいからです」
そう言うとアシュレイ様は一度だけ瞬きをして、それから静かに目を細めた。
「それは、ひどく嬉しいな」
その返しがあまりに真っ直ぐで、少しだけ顔が熱くなる。
「……やはり、そうおっしゃいました」
「分かっていたのか」
「これでも、少しはアシュレイ様のことが分かるようになってきたんですよ」
私がそう微笑みかけると、ふっと空気がやわらいだ。
そのままアシュレイ様は私の書いた紙へ目を戻し、ふいに言われた。
「君は、そうしていると活き活きとしているな」
「……そうでしょうか」
「ああ。以前より、ずっと」
そんなふうに言われると、どうにも照れくさい。
「別に仕事が好きだから、というわけではございません」
「では?」
「ここでなら、私のしたことを見ていただける。なによりアシュレイ様が居る。だから──ちゃんと届く気がするのです」
前の家では、整えても、拾っても、先回りしても、それが当然のように消えていった。
けれど、ここでは違う。
「無駄にならないと思えるのです」
「……そうか」
「はい。だから私も、ちゃんと返したいのです」
アシュレイ様はそれを聞いて、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「なら、なおさら良い」
「良いのですか」
「ああ。君がそう思ってくれることが、私には嬉しい」
一見すると無表情なのに、その口元はたしかにやわらいでいた。
その横顔を見ていると、どこか気恥ずかしくなる。
こほんと咳払いして、私は改めて手元の紙に目を落とした。
「このままで、通るでしょうか」
「反発はあるだろうな。逆に、どうすれば通ると思う」
問われて、私は少しだけ息を呑んだ。
問い詰める響きではなかった。
ただ、別の角度から考えろと促されたのだ。
「そうですわね──やはり嫌がられるのは、手間が増えることですわ。でしたらまず、増やす話ではなく減らす話だとお伝えします」
「そうだな。まずはそれがいい」
「どうしても現場には混乱が生じると思います。ですが……新しいことを試さないままでは、ずっと現場は疲弊したままです」
新しいやり方は、それだけで身構えられるものだ。
忙しい現場なら、なおさらだ。
「だとしても、感情は別だ」
「なら、まずは一部から試す形にします」
「例えば?」
「動きの多い一部の薬液と包帯布ですわ。これなら動きが分かりやすく、現場にも大きな負担は出づらいはずです」
そこまで言うと、アシュレイ様は静かに頷かれた。
「なるほど。そこまでまとまっているなら十分だろう」
「そうでしょうか」
「ああ。君の中では、もう通せる形になっている」
「……」
「自信を持て。あとは君の言葉で持っていけばいい」
私は思わず紙へ目を落とした。
緊張はしている。けれど、さっきより迷いは少なかった。
そっと指先が紙の端に触れた。
顔を上げると、アシュレイ様が私の書いた案を軽く押さえておられる。
「一人で背負いすぎるな」
「……はい」
「胸を張って、君の案として持っていけ。その方が、きっと相手にも届く」
アシュレイ様はそこで少しだけ声を落とした。
「必要なら、私の名を使えばいい」
「……それは少し大げさではありませんか?」
「大げさで何が悪い」
「悪いとは申しませんけれど……」
「妻が張り切っているのだ。後ろ盾くらい、いくらでも引き受けよう」
あまりに当然のように言われて、胸の奥がふっと熱くなった。
この人にとっては、私を支えることなど迷うまでもないらしい。
***
その夜のうちに紙を整え直し、翌日、私は再び医療院を訪れた。
事務室へ入った瞬間、数人分の視線が一斉にこちらを向いた。
事務室にはヴェルナー院長、イルゼ、それに備蓄庫の担当者と病棟側の看護役が一人いた。
前よりも露骨な警戒は薄い。けれど、歓迎一色というわけでもない。
「本日は、先日見せていただいた流れについて、整えた案をお持ちしました」
そう言って紙を置くと、備蓄庫の担当者が真っ先に眉をひそめた。
「これ以上、帳面を増やす余裕はありません」
硬い声だ。
──やはり、そこから来ましたわね。
私は紙の端をそっと押さえた。




