第10話 その数字の理由を知るために
「医療院の事務を預かっております、イルゼと申します」
名乗りは丁寧だった。
けれど、その目の奥にある疲れと警戒は、隠しきれていなかった。
どうやら、ただ歓迎されているわけではないらしい。
「本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。院長も参りますが、今、診察の手が離せず……少々お時間をいただけますでしょうか」
「もちろんですわ。急なお願いをしたのはこちらですもの」
そう返すと、イルゼはわずかに目を瞬かせた。
案内されたのは医療院の事務室だった。
壁一面の棚には帳簿と書類箱がぎっしり並び、一見よく整っている。けれど背表紙や札の書き方には少しずつ違う癖が残っていて、忙しい中で継ぎ足しながら回してきた場所なのだと分かった。
私は椅子に腰を下ろし、持ってきた申請書と、机の上へ出された帳簿を見比べた。
「追加申請は、毎月この形で?」
「はい。基本的には各部署から上がったものを、こちらでまとめております」
「基本的には、ということは?」
「急ぎのものは、口頭で先に通ることもございます」
イルゼは迷わずそう答えた。
それだけ、この流れが当たり前になっているのだろう。
「帳簿への反映は、その都度?」
「その日のうちにできる時もございますし、数日分をまとめる場合もございます」
「なるほど」
記録が揃いきらない理由は、その辺りにあるのかもしれなかった。
私は一冊の帳簿を開き、先月分の薬液の記録を追った。
申請量と納品量は数字として合っている。けれど、その割に在庫の減り方が一定ではない。
使われた先の部署も、書き方がまちまちだ。外来と病棟で分けている頁もあれば、まとめて記してある頁もある。
「……この週だけ、減り方が急ですわね」
小さく呟くと、イルゼが少し身を乗り出した。
「流行病が最後に広がった時期でございます。洗浄と消毒の回数が増えましたので」
「その後は?」
「落ち着いております」
「では、この翌週にもう一度同じ量の追加申請が出ているのは、どういう理由かしら」
そう言った瞬間、イルゼの表情がわずかに硬くなった。
「それは……念のための備えでございます」
「備え」
「はい。冬場は読めませんので」
備えと言われれば、それで通る。
けれど帳簿の数字を追っていると、どうにもその言葉だけでは納まらない気がした。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、白髪混じりの男性だった。
五十代の後半だろうか。
医療院長のヴェルナーと紹介されたその人は、礼儀正しく一礼した後で、隠しきれない疲労をにじませた顔でこちらを見た。
「お待たせして申し訳ございません、リディア様」
「いいえ。お忙しいところ、お時間をいただいているのはこちらですもの」
「……そうおっしゃっていただけると助かります」
ヴェルナー院長が席につくと、私は改めて申請書を机に広げた。
「本日は、追加申請の流れを確認したく伺いました。先月と今月、似た品目で複数回の申請が出ておりますのよね」
「ええ。必要でしたので」
「その必要の内訳を、もう少し細かく見せていただけますか」
ヴェルナー院長は即答しなかった。
私から目を逸らし、一瞬だけ視線が宙に止まる。
その短い間の取り方が、嫌に見覚えのあるものだった。
すぐには答えられないときの、あるいは答え方を選んでいるときの間だ。
「不足が出れば困るのです」
「それはもちろん」
「今年の冬は例年より長引きましたし、患者の数も読めませんでした。足りなくなることだけは避けねばなりませんでしたので」
それ自体は、間違っていないと思う。
けれど、目の前の数字はそれだけで収まるようには見えなかった。
「では、その判断を取りまとめているのは?」
「各部署の責任者が上げたものを、事務で集約しております」
「その結果が、この申請量になると」
そこでヴェルナー院長は、わずかに眉を寄せた。
「リディア様は、現場に無駄があるとお考えなのですか?」
声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの下に警戒があることくらい私にも分かった。
帳簿の数字だけを見て、削れるところはどこだ、誰が怠けているのだと、外から言われてきたことがあったのかもしれない。
現場を知らずに数字だけで口を出されれば、身構えたくもなるだろう。
私は首を横に振った。
「そのようなつもりはありません」
「では?」
「分からないから、見に来たのです」
できるだけ静かな声でそう言った。
「帳簿の上では足りているように見えるのに、同じ品目で追加申請が続いている。そこには何か理由があるはずです。それが無駄なのか、偏りなのか、あるいは記録の仕方の問題なのか。今の段階では、わたくしにも分かりません」
「……」
「ですから、それを知りたいのです」
しばらく、誰も口を開かなかった。
その沈黙の中で、遠くから子どもの泣き声がした。
廊下を慌ただしく走る足音がして、誰かが早口で薬の名を告げる。
医療院は静かな場所ではない。ひとつの部屋の中で完結する仕事でもない。
やはり、帳簿の数字を見るだけでは足りないのだと思った。
「帳簿だけでは追い切れないところがあります」
先に口を開いたのは、イルゼだった。
ヴェルナー院長がちらりと彼女を見る。
けれど止めなかった。
「急ぎのときは、まず物を動かしてから記録を追うことがございます。感染症の疑いが出たとき、洗浄を優先した部屋と、まだそこまで不要な部屋とで消耗の差も出ます。ですが、記録は必ずしもその順では残りません」
「先に使って、あとで記録する」
「はい」
「その間に、別の部署からも同じ申請が上がることがある?」
「ございます」
私は帳簿に目を落とした。
複数の申請が並行して動くうちに、記録と帳簿の反映がきれいに揃わなくなっているのだろう。
──数字そのものより、記録の残り方に揺れがあるのかもしれない。
もしそうなら、帳簿の見た目だけでは掴みにくいはずだ。
「こちらも、整っていないのは承知しております」
ヴェルナー院長が低く言った。
「ですが、まず患者が優先です。帳簿を美しく揃えるために手を止めるわけにはまいりません」
「それはそうですわ」
「であれば──」
「ただ」
今度は私が言葉を継いだ。
「帳簿が追いつかないままですと、次に不足が出る場所も見えにくくなりますわよね」
院長が黙る。
私はそのまま、言葉を続けた。
「皆さまがこれだけお忙しいほど、後で見返せる形が必要なのだと思います」
「……後で見返せる形」
「ええ。どこで急に消耗が増えたのか、どの部署に偏ったのか、どこまでは備えで、どこからが重複なのか。今の形ですと、それを確認するたび、結局分かっている方に聞くしかなくなってしまいますでしょう?」
「……」
その瞬間、イルゼの表情がほんの少し変わった。
少なくとも、まったくの見当違いではなかったらしい。
「今日は、各所の視察もお願いできますか?」
そう尋ねると、今度は二人ともはっきりこちらを見た。
「病棟、消毒室、備蓄庫。可能であれば一通り」
「それは構いませんが、なぜそこまでなさるのです?」
「帳簿を見ただけでは分からないことが多そうですもの。見ずに分かったつもりにはなれません」
ヴェルナー院長は、すぐには頷かなかった。
だが断りもしなかった。
そのかわり、少しだけ試すような目で私を見ると、
「足元は悪いですし、匂いもきつい場所がございます。あまり奥様向きではありませんが、それでも?」




