第1話 その席は、本当は私のためのものだった
私の婚約披露の席で、婚約者は妹の腰を抱いていた。
伯爵家の春の夜会。
本来なら、七年越しの婚約を披露する私のための席だった。
花も席順も招待客も、そのために整えられていた。
──少なくとも、私はそう聞かされていた。
けれど壇上の中央に立っているのは私ではない。
父が何より重く見ていたヴァレントン伯爵家との縁。その婚約相手であるフレデリック・ヴァレントン伯爵令息に寄り添い、恥じらったように微笑んでいるのは、妹のセシルだった。
父も母も、それを止めない。
母は目を伏せ、父は眉ひとつ動かさなかった。
「皆さま、本日はお集まりいただき感謝する」
フレデリックが、グラスを掲げる。
ざわついていた会場が静まった。
シャンデリアの光が、セシルの蜂蜜色の髪に絡む。
まるで、最初から彼女のための舞台だったみたいに、よく似合っていた。
私だけが、壇上の端に立たされている。
「今宵、皆さまにお伝えしたいことがある」
客たちの間に期待を含んださざめきが広がる。
何も知らされていないのは、どうやら私だけではなかったらしい。
それでも、もう分かってしまった。
フレデリックが私を見ようとしないこと。
母が落ち着かなげに扇を開いたり閉じたりしていること。
父が私にだけ視線を合わせないこと。
そしてセシルが泣きそうな顔をしながら、少しも怯えていないこと。
ああ、と胸の内でだけ思う。
またなのね、と。
「リディア・エヴァンズ」
名を呼ばれ、私は一歩前へ出た。
その瞬間、会場中の視線が私に集まる。
「君との婚約を、ここで破棄する」
はっきりと、よく通る声だった。
一拍遅れて会場がどよめく。
義憤でも困惑でもない。思いがけず、上等な余興が始まったとでも言わんばかりの空気だった。
フレデリックの隣に立つセシルを見て、客たちはすぐに事情を飲み込んだのだろう。扇が開き、笑みを隠した視線が私に集まる。
七年も婚約していた相手なのだ。
悲しくないわけではない。それでも、胸の奥に最初に浮かんだのは、悲鳴でも涙でもなかった。
――ああ、これで終わるのね。
そんな、ひどく静かな安堵だった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
私が問うと、フレデリックは予想どおり眉をひそめた。
「理由だと?」
「はい。婚約の破棄には、それなりの説明が必要かと存じますが」
「そういうところだ」
苛立った声が返る。
「君はいつも正しいことばかり言う。礼儀だ、筋だ、責任だと、そんな話ばかりだ」
「……婚約に関する話ですから、当然では?」
「そうやってすぐ理屈を並べる」
彼は周囲を見回し、ますます声を張った。
「可愛げがない。男を立てることも知らない。婚約者のくせに私の判断に意見して、伯爵家のことにまで口を出す。そんな女と結婚して、誰が安らげる?」
ひどい言い草だ。
けれど腹が立つより先に、妙な納得が来た。
──ああ、この人は本気でそう思っていたのだ、と。
帳簿も契約も予算も、全部「婚約者のくせに口を出す」の一言で片づけられる程度のものだったらしい。
そこで、セシルが控えめに口を開いた。
「お姉様を責めないでくださいませ、フレデリック様」
可愛らしく震える声だった。昔から、そういう声の出し方だけは上手かった。
「お姉様はとても立派な方なのです。私なんかよりずっと賢くて、なんでもできて……。でも、だからこそ殿方の気持ちは分からなかったのです」
はらり、と長い睫毛が伏せられる。
「お姉様はお強いから。誰かに寄りかからなくても、おひとりで何でもできてしまうもの。でも私は、そんな風にはなれません。私は……、いつもこれで正しいのかって不安で……」
そしてセシルは、ためらうようにフレデリックの袖を掴んだ。
「お姉様なら平気ですわ。昔から、何でもおひとりでできましたもの」
「セシル。あなたは──」
「お父様、お母様……」
私が口を開いたその時、セシルが不安そうに両親を振り返る。
すると母は、待っていましたとばかりに前へ出た。
「リディア。もうおやめなさい」
「何を、でしょうか」
「その顔よ。被害者みたいな顔をするのはおやめなさい」
「被害者みたいな、顔」
ここまでしてでも、私を悪役にしなければ気が済まないらしい。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
「フレデリック様は正直におっしゃってくださったのよ。あなたのためでもあるのよ」
「私のため?」
「そうよ。愛されもしない相手に縋りつくより、潔く身を引く方がまだ見苦しくないわ」
母は扇を閉じ、きっぱりと言った。
「あなたは昔から真面目すぎるの。女は愛嬌。少しくらい隙があって、甘え上手でなくては愛されないのよ」
「……」
「セシルの方がフレデリック様に相応しいのは、見れば分かるでしょう」
父も低い声で続ける。
「フレデリック様の心を繋ぎ止められなかったのは、おまえの落ち度だ。ヴァレントン伯爵家との縁がどれほど重要か、おまえにも分かっているはずだ。ここで関係を損ねるような真似は許さん」
「……」
「セシルなら妻にしてもいいと望まれたのだ。お前は賢いのだから、家のために黙って譲ればいい」
見事なくらい、自分たちの都合しか考えていない。
けれど不思議と、今さら深くは傷つかなかった。
今に始まった話ではない。この両親にとって娘とは、自分たちに都合よく動く駒でしかないのだろう。
「承知いたしました」
私は、表情を見せずに静かにカーテンシーした。
一瞬、会場が静まった。
「婚約破棄を受け入れます」
「……ずいぶんあっさりしているな」
フレデリックの声には、なぜか不満が滲んでいた。
「では、どう反応すればご満足でしたか?」
「何?」
「泣いて謝れば良かったのでしょうか。あるいは、セシルに譲りたくないと取り乱せば?」
「そういう言い方が可愛くないんだ!」
私は小さく息をつく。
最後まで、話の通じない人だ。
「かしこまりました。では今後は、そうした可愛らしい対応はセシルにお求めください」
「リディア!」
「ただ、ひとつだけ確認してもよろしいでしょうか」
父が顔をしかめ、母は露骨に嫌そうな顔をした。
でも、もう止まるつもりはなかった。
「婚約破棄そのものは承知いたしました。では、婚約者として私が預かっていた伯爵家の書類は、今後どうなさるおつもりですか」
「……は?」
「共同事業の帳簿、春の納品契約の更新、秋の慈善茶会の予算案、来月の領地視察の日程調整。引き継ぎが必要なものは少なくありません」
「何の話だ」
フレデリックが、初めて本気で戸惑った顔をした。
「そんなもの、君が勝手にやっていただけだろう」
「伯爵家の執事長には確認を取っておりましたが」
「聞いていないぞ!」
知らなかったのだ、この人は。
しっかり者の婚約者くらいにしか思っていなかった女が、どれだけ自分の足元を整えていたのか。
「まさか、なにもご存じないまま婚約破棄なさったのですか」
「……っ」
「お言葉ですが、何度かご説明はいたしました」
「そんな細かいことまで覚えているものか!」
「左様でございますか」
周囲の空気が少し変わった。
面白がるだけだった視線の中に、値踏みするような色が混じる。
セシルの顔から、かすかに笑みが消えた。
「お姉様……。今は、そんなお話をする場では……」
「そう? でも大事なことでしょう」
私は初めて、まっすぐに妹を見た。
「これからあなたがフレデリック様の隣に立つのなら、避けては通れないわ。その覚悟があって彼を選んだのでしょう?」
セシルの唇がひくりと震えた。
「お姉様、ひどい……。そんな風に言われたら、私……」
セシルがいつものように瞳を潤ませる。
それだけで父と母は非難するような目を私に向けてきた。
毎度、飽きもしないでよくやることだ。
──そのときだった。
「随分と賑やかだな」
低く、よく通る声が、広間のざわめきを断ち切った。
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