戦端
木曜日の朝。
蓮は、また早く目が覚めた。
体の痛みは、昨日よりはマシだった。
鏡を見ると、顔色も少し戻っている。
「クヤの力、少しずつ慣れてきたのかな」
「ああ。お前の体が、俺の力に適応し始めている」
クヤの声が答えた。
「でも、油断するな。まだ完全には制御できていない」
「分かってる」
蓮は着替えて、階段を降りた。
リビングに行くと、家族が揃っていた。
しかし、雰囲気は昨日よりもさらに悪い。
父親は新聞を読んでいるが、その目は血走っている。
母親は食事の準備をしているが、動きがぎこちない。
葵は、テーブルに突っ伏している。
「葵?」
蓮が声をかけると、葵は顔を上げた。
その目は虚ろで、隈ができている。
「お兄ちゃん…」
「大丈夫か?」
「…夢、見るの。毎晩」
葵の声は震えていた。
「誰かが、私に話しかけてくる。『調和を保て』『バランスを守れ』って」
「もう、寝るのが怖い」
蓮は妹の手を握った。
冷たい。
「大丈夫だ。俺がいる」
「…うん」
葵は小さく頷いた。
蓮は家族全員を見回した。
みんな、靄が濃くなっている。
父親は紫。母親は緑。葵は緑。
「急がないと…」
蓮は焦りを感じた。
今日中に、何とかしないと。
2
通学路。
いつもの場所に、大樹が立っていた。
「大樹!」
蓮は駆け寄った。
「よう、蓮」
大樹は笑顔を見せた。
しかし、その笑顔はどこか硬い。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ、昨日退院した。医者も首傾げてたけど、特に異常なしだって」
大樹は肩を竦めた。
蓮は大樹を見つめた。
背後の赤い靄は、半分くらいに減っている。
「入院中、何があったか覚えてる?」
「いや、全然。気づいたら病院にいた」
大樹は頭を掻いた。
「でも、変な夢は見た」
「夢?」
「ああ。誰かが俺の中で叫んでるんだ。『戦え』『殺せ』って」
大樹の表情が暗くなった。
「怖かった。まるで、自分が自分じゃなくなるみたいで」
蓮は胸が痛んだ。
大樹も、苦しんでいる。
「でも、ある時、その声が弱くなった」
「弱く?」
「ああ。何か、温かいものが流れ込んできて。そしたら、声が遠くなって」
大樹は蓮を見た。
「不思議だよな。まるで、誰かが助けてくれたみたいだった」
蓮は何も言えなかった。
二人は歩き出した。
商店街を通る。
八百屋は、今日も閉まっている。
しかし、その前に人だかりができていた。
「何だ?」
蓮と大樹は近づいた。
警察がいる。
そして、シャッターに、血のような赤い文字が書かれていた。
『終わりが来る』
蓮は背筋が凍った。
「何だよ、これ…」
大樹が呟いた。
周囲の人々も、ざわついている。
「悪質なイタズラですね」
警官の一人が言った。
「店主さん、連絡取れないんですか?」
「ええ、もう一週間…」
近所の人らしき女性が答えた。
その女性の背後にも、橙色の靄が見える。
「あ、でもね」と別の男性が言った。
「店主さん、最近変なこと言ってたんですよ」
「変なこと?」
「ええ。『神様が降りてきた』って」
蓮は耳を疑った。
「神様?」
「ええ。店を閉める前、私に言ってきたんです。『ついに神様が降りてきた。私は選ばれた』って」
「目がギラギラしててね、怖かったですよ」
蓮は愕然とした。
八百屋のおじさんも、神の器になったのか。
そして、それを「神が降りてきた」と認識している。
「つまり…」
蓮は周囲を見回した。
人だかりの中に、何人か、靄を纏った人間がいる。
そして、その中の一人──中年の男性が、小さな祠のようなものを持っていた。
「戦の神様に、導きを…」
男性は呟いている。
その背後の赤い靄は、非常に濃い。
「信仰してる…」
蓮は理解した。
神の器になることを、「神が降りてきた」「選ばれた」と解釈し、信仰している人間がいる。
「行こうぜ、蓮。遅刻する」
「ああ…」
二人はその場を離れた。
しかし、蓮の胸の中の不安は消えなかった。
器になることを、喜んでいる人間がいる。
そういう人間を、救えるのか?
3
学校。
校門をくぐった瞬間、異様な雰囲気を感じた。
生徒たちが、妙に静かだ。
そして、みんなの背後の靄が、昨日よりもさらに濃い。
「やばい…」
蓮は呟いた。
下駄箱へ向かうと、また壊されている靴箱があった。
今度は十個以上。
しかし、それだけではなかった。
壁に、何かが書かれている。
『創造神に栄光を』
『戦の神に勝利を』
『知恵の神に真理を』
それぞれ、違う色のペンキで書かれている。
「これ…」
大樹が驚いた声を上げた。
「誰が書いたんだ?」
蓮には分かった。
これは、神を信仰する生徒たちの仕業だ。
教室に入ると、さらに衝撃的な光景が待っていた。
教室が、いくつかのグループに分かれている。
窓際に、金色の靄を纏った生徒たちが集まっている。
前方に、赤い靄の生徒たち。
後方に、紫の靄の生徒たち。
そして、それぞれが、互いを睨み合っている。
「何だよ、これ…」
大樹が呆然と呟いた。
蓮は自分の席に座った。
美月が、心配そうな顔で近づいてきた。
「蓮くん、見た?あの落書き」
「ああ」
「みんな、おかしくなってる」
美月の声は震えていた。
「昨日から、急に宗教みたいなこと言い出す子が増えて」
「宗教?」
「うん。『神様に選ばれた』とか、『神様の意志に従う』とか」
美月は教室を見回した。
「そして、同じことを言う子同士で集まって、他のグループを敵視してる」
蓮は拳を握った。
神々の代理戦争が、もう始まっている。
そして、信仰という形で。
ホームルームが始まった。
担任の黒木先生が入ってくる。
その背後の紫の靄は、非常に濃い。
「えー…」
黒木先生は言葉を探している様子だった。
「今朝、校内に落書きがありました。また、昨夜も窓ガラスが割られました」
「警察も入っていますが、犯人は分かっていません」
黒木先生は深いため息をついた。
「そして…」
黒木先生は教室を見回した。
「みなさん、最近、変な噂を信じていませんか?」
誰も答えない。
「神が降りてきた、とか。選ばれた、とか」
黒木先生の声は、かすかに震えていた。
「そんなものは、ありません」
その瞬間、窓際のグループから声が上がった。
「先生は分かってない!」
クラスメイトの一人、田中という生徒が立ち上がった。
その背後の金色の靄は、非常に濃い。
「創造神様は、実在する!私たちは選ばれたんだ!」
「田中、座りなさい」
「嫌です!先生こそ、知恵の神の手先でしょう!」
田中は黒木先生を指差した。
「先生の周りに、紫の光が見える!先生も器だ!」
蓮は驚いた。
田中にも、靄が見えている。
「何を言って…」
黒木先生が言いかけた瞬間、前方のグループから別の生徒が立ち上がった。
「うるせぇ!創造神なんて、古臭い!」
佐藤という生徒だ。背後には赤い靄。
「これからは、戦の神の時代だ!力こそ正義!」
「何だと!」
田中が佐藤に詰め寄った。
「やめなさい!」
黒木先生が止めようとしたが、二人は聞いていない。
「創造神派の負け犬が!」
「戦神派の野蛮人が!」
二人が掴み合いになった。
教室中が騒然となった。
それぞれのグループが立ち上がり、叫び始めた。
「創造神に栄光を!」
「戦の神に勝利を!」
「知恵の神に真理を!」
「調和の神に平和を!」
蓮は呆然とした。
これが、神々の代理戦争。
人間同士が、神の名のもとに争う。
「やめろ!」
蓮は叫んだ。
しかし、誰も聞いていない。
教室は、もはや制御不能だった。
4
数分後。
他の教師たちが駆けつけ、何とか田中と佐藤を引き離した。
しかし、教室の空気は険悪なままだった。
「全員、着席!」
教頭が怒鳴った。
生徒たちは渋々座ったが、互いを睨み合っている。
「今日は、授業を中止します」
教頭の声は厳しい。
「全員、体育館に集合。緊急集会を行います」
生徒たちは、ざわざわと教室を出ていった。
蓮は美月と大樹と一緒に廊下を歩いた。
「マジでやばいな…」
大樹が呟いた。
「みんな、頭おかしくなってる」
「神様、か」
美月が小さく呟いた。
「私も、聞こえる。神様の声」
「美月…」
「でも、蓮くんが助けてくれたから、まだ私は私でいられる」
美月は蓮を見た。
「ありがとう」
「…まだ完全じゃない。今日中に、もう一度やらせてくれ」
「うん」
三人は体育館へ向かった。
5
体育館。
全校生徒が集まっていた。
しかし、体育館の中も、明らかにグループに分かれている。
金色の靄の集団。
赤い靄の集団。
紫の靄の集団。
緑の靄の集団。
橙の靄の集団。
黒い靄の集団。
そして、少数だが、靄のない生徒たち。
蓮は、靄のない生徒たちの中に、柚木の姿を見つけた。
柚木は、蓮に小さく頷いた。
「静粛に!」
校長がマイクを持って壇上に立った。
その背後にも、金色の靄がある。
「最近、校内で異常な事態が続いています」
校長の声が、体育館に響く。
「器物破損、暴力事件、そして今朝の教室での騒動」
「これ以上、このような事態を放置することはできません」
校長は深呼吸した。
「ですが、私には分かりません。なぜ、こんなことになっているのか」
校長の声は、かすかに震えていた。
「誰か、説明できる者はいますか?」
沈黙。
しかし、その沈黙を破る声があった。
「校長先生」
生徒会長の雅が、手を挙げた。
雅は壇上に上がった。
その背後の金色の靄は、昨日よりは薄いが、まだ残っている。
「私には、分かります」
雅の声が、体育館に響いた。
「これは、神々の意志です」
ざわめきが広がった。
「神々が、私たちを選んだのです。それぞれの神が、それぞれの器を」
「そして、神々は争っている。だから、私たちも争う」
雅の目が、一瞬金色に光った。
「これは、避けられない運命です」
蓮は拳を握った。
雅の中の統治の神が、まだ影響を与えている。
「違う!」
蓮は叫んだ。
全員の視線が、蓮に集まった。
「これは、運命じゃない」
蓮は壇上へ向かって歩き出した。
「俺たちは、操られてるだけだ」
「柊…」
雅が蓮を見た。
蓮は壇上に上がった。
「みんな、聞いてくれ」
蓮の声が、体育館に響く。
「神の声が聞こえる人、いるだろ?」
何人かが、頷いた。
「その声は、お前たち自身のものじゃない。神が、お前たちを利用しようとしてるだけだ」
「ふざけるな!」
赤い靄の集団から、声が上がった。
「神様は、俺たちを選んでくれた!」
「そうだ!創造神様は、俺たちに使命を与えてくれた!」
金色の靄の集団も叫ぶ。
「違う」
蓮は首を横に振った。
「神は、お前たちを道具としか思ってない」
「証拠は!」
「証拠は…」
蓮は言葉に詰まった。
どうやって説明すればいい?
「蓮」
クヤの声が聞こえた。
「力を見せろ。お前の力を」
「でも…」
「みんなの前で、神の力を剥がして見せるんだ」
蓮は決意した。
「なら、証明する」
蓮は雅に向き直った。
「先輩、力を貸してくれ」
「…何をする気だ」
「先輩の中の神を、追い出す」
ざわめきが広がった。
「できるわけが…」
雅が言いかけた瞬間、蓮は雅の肩に手を置いた。
そして、力を解放した。
黒い光が、蓮の手から溢れ出た。
体育館中が、息を呑んだ。
「これが、俺の力」
蓮は力を雅の体に流し込んだ。
雅の背後の金色の靄が、激しく揺れ始めた。
「やめろ…やめろ…」
雅の口から、統治の神の声が漏れた。
「この器は…我がもの…」
「違う」
蓮は力を強めた。
「雅先輩は、誰のものでもない」
黒い光が、金色の靄を押し出していく。
蓮の体が、激しく痛む。
しかし、止めない。
みんなに見せなければ。
神を追い出せることを。
「うああああ!」
雅が叫んだ。
そして──
金色の靄が、完全に雅の体から剥がれ落ちた。
靄は空中で消えた。
雅は、その場に膝をついた。
「はぁ…はぁ…」
荒い息。
しかし、その目は、完全に正気を取り戻していた。
「先輩」
「…蓮」
雅は蓮を見上げた。
「ありがとう」
体育館中が、静まり返った。
そして──
「嘘だろ…」
「神が、追い出された…」
「あいつ、何者だ…」
ざわめきが広がった。
蓮は体育館中を見回した。
「これが証拠だ。神は、追い出せる」
「お前たちは、自由になれる」
しかし、その瞬間──
「許さん!」
赤い靄の集団から、一人の生徒が飛び出してきた。
佐藤だ。
その目は、完全に赤く染まっている。
「戦の神を侮辱するな!」
佐藤の体が、異様な力を放ち始めた。
完全に、器になっている。
「死ね!」
佐藤は蓮に向かって拳を振り上げた。
蓮は避けようとしたが、体が動かない。
力を使いすぎた。
「蓮!」
大樹が叫んだ。
しかし、間に合わない。
佐藤の拳が、蓮に向かって──
その瞬間。
誰かが、蓮の前に立った。
柚木だ。
「邪魔だ!」
佐藤の拳が、柚木に当たった。
しかし、柚木はびくともしなかった。
「お前、戦の神の完全な器か」
柚木は冷静に言った。
「なら、俺が相手だ」
柚木の背後から、透明な風のようなものが立ち上った。
自由の神の力。
「うおおお!」
佐藤が再び拳を振るった。
しかし、柚木はそれを軽々と受け止めた。
「落ち着け。お前はまだ、自分を取り戻せる」
「うるさい!」
佐藤は暴れ続けた。
そして、それを合図に。
体育館中が、混乱に陥った。
それぞれのグループが、互いに襲い掛かり始めた。
「創造神派、進め!」
「戦神派、応戦しろ!」
「知恵神派は、戦術を!」
神々の代理戦争が、ついに始まった。
蓮は呆然とその光景を見ていた。
「始まってしまった…」
「ああ」
クヤの声が答えた。
「神々の戦争が」




