始まり
7
昼休みの屋上。
蓮は一人、立っていた。
「どうやって訓練するんだ?」
蓮が聞くと、クヤの声が答えた。
「まず、自分の力を感じろ」
「感じる…?」
「ああ。目を閉じて、胸の奥に意識を集中させろ」
蓮は言われた通りにした。
目を閉じ、深呼吸。
胸の奥に意識を向ける。
すると──
何かが、そこにある。
熱い。重い。そして、膨大。
まるで、底なしの深淵のような。
「これが…」
「それが、俺の力だ」
クヤの声が響いた。
「膨大だろう。制御を誤れば、お前の体は耐えられない」
蓮は息を呑んだ。
確かに、恐ろしいほどの力だ。
「じゃあ、どうすれば」
「少しずつ、引き出すんだ。コップ一杯の水を注ぐように」
「コップ一杯…」
「ああ。決して、ダムを決壊させるな」
蓮は集中した。
胸の奥の力。
それを、ほんの少しだけ。
右手に流す。
すると──
右手が、かすかに光った。
黒い、淡い光。
「できた…」
「いい調子だ。その感覚を覚えろ」
蓮は右手を見つめた。
光は、すぐに消えた。
「もう一回」
蓮は繰り返した。
力を引き出す。右手に流す。
光る。
消す。
何度も、何度も。
「うっ…」
十回目で、蓮は膝をついた。
頭が痛い。体が重い。
「無理するな。初日はこれで十分だ」
「でも…」
「焦るな。少しずつだ」
クヤの声は、優しかった。
「お前は、よくやってる」
蓮は荒い息をついた。
「これで…本当に、みんなを救えるのか」
「ああ。必ず」
「…分かった」
蓮は立ち上がった。
体はまだ重いが、少し自信がついた。
チャイムが鳴った。
昼休み終了。
「午後の授業、頑張れ」
「ああ」
蓮は屋上を後にした。
8
午後の授業。
蓮は集中できなかった。
放課後、生徒会室に行かなければならない。
そこで、雅と対決することになる。
「大丈夫だろうか…」
不安が募る。
しかし、やるしかない。
雅を救うためには。
五時間目、六時間目と過ぎていく。
そして、終業のチャイムが鳴った。
「よし…」
蓮は立ち上がった。
「蓮くん」
美月が声をかけてきた。
「一緒にお見舞い行くんだよね?」
「あ…」
蓮は迷った。
生徒会室に行かなければならない。
でも、美月を待たせるわけにもいかない。
「ごめん、美月。ちょっと用事ができて」
「そうなんだ…」
美月は残念そうな顔をした。
「じゃあ、私一人で行くね」
「悪い」
「ううん、大丈夫」
美月は笑顔を作った。
「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
美月は教室を出ていった。
蓮は深呼吸した。
「行くか」
生徒会室へ向かう。
9
生徒会室。
ドアの前に立つと、中から声が聞こえた。
「入れ」
雅の声。
蓮はドアを開けた。
生徒会室には、雅一人だけがいた。
窓際に立ち、外を見ている。
その背後の金色の靄は、昼よりもさらに濃い。
「来たか、柊」
雅が振り返った。
その目は、完全に金色に染まっていた。
「先輩…」
「俺を先輩と呼ぶな」
雅の声は、冷たい。
「俺は、統治の神の器。お前を支配するために選ばれた存在だ」
蓮は拳を握った。
やはり、雅はほとんど乗っ取られている。
「神宮寺先輩、まだ中にいるんですよね」
「いない」
雅──いや、統治の神が答えた。
「この器は、もう俺のものだ」
「嘘だ」
蓮は叫んだ。
「先輩は、まだ戦ってる」
「無駄だ」
統治の神は冷笑した。
「この器は弱い。俺に抵抗する力などない」
「そんなことない」
蓮は一歩、前に出た。
「先輩は強い。誰よりも」
「ならば、証明してみせろ」
統治の神は手を挙げた。
すると、生徒会室の空気が変わった。
重く、圧迫的に。
「ここは、俺の領域だ。お前に逃げ場はない」
蓮は息苦しさを感じた。
「くっ…」
「跪け、柊蓮。お前の主に」
統治の神が手を振り下ろした。
瞬間、見えない力が蓮を襲った。
「がっ…」
蓮は床に押し付けられた。
重い。体が動かない。
「これが、統治の力だ。逆らう者を、力で従わせる」
統治の神は蓮に近づいた。
「お前の中の最厄、我が主にふさわしい」
「誰が…」
蓮は歯を食いしばった。
「誰が、お前なんかに」
「クヤ、力を貸してくれ」
心の中で叫んだ。
「分かった。だが、やりすぎるな」
クヤの声が答えた。
蓮は胸の奥の力を引き出した。
昼に訓練した通りに。
コップ一杯の水を注ぐように。
右手に、力を流す。
黒い光が灯った。
「何…?」
統治の神が驚いた。
蓮は床に手をついた。
そして、力を解放した。
「うおおおお!」
黒い光が、生徒会室全体に広がった。
統治の神の力が、押し返される。
「馬鹿な…最厄の力を、もう使えるのか…」
蓮は立ち上がった。
体は重いが、動ける。
「先輩を、返せ」
蓮は雅に向かって歩いた。
「来るな!」
統治の神が手を振った。
また、圧力が襲ってくる。
しかし、今度は蓮の周りに黒い光の膜ができた。
圧力を防いでいる。
「これは…」
「お前の力が、防御してる。いい調子だ」
クヤの声が励ました。
蓮は雅の前まで辿り着いた。
「やめろ、触るな!」
統治の神が叫んだ。
しかし、蓮は構わず、雅の肩に手を置いた。
「先輩、聞こえますか」
「…」
雅の体が震えた。
「俺です、柊です。先輩、帰ってきてください」
「無駄だ…この器は…」
統治の神の声が途切れた。
雅の目が、一瞬だけ元の色に戻った。
「柊…」
「先輩!」
「俺は…何を…」
雅の声は、か細い。
「大丈夫です。今、助けます」
蓮は力を流し込んだ。
クヤから教わった通り、慎重に。
黒い光が、蓮の手から雅の体へ流れ込む。
「うああああ!」
統治の神が悲鳴を上げた。
「やめろ、やめろ!俺を追い出すな!」
金色の靄が、雅の体から剥がれ始めた。
「もう少し…」
蓮は力を込めた。
しかし、その瞬間──
激痛が走った。
「がっ…」
蓮の体が悲鳴を上げた。
力を使いすぎている。
「蓮、やめろ!体が持たない!」
クヤが警告した。
「でも…」
「今は引け!完全には無理だ!」
蓮は歯を食いしばったが、クヤの言う通りだった。
これ以上は危険だ。
力を引っ込めた。
雅の体から、金色の靄の半分が剥がれていた。
しかし、まだ半分残っている。
「くそ…」
蓮は膝をついた。
雅も、その場に崩れ落ちた。
「はぁ…はぁ…」
二人とも、荒い息をついている。
「柊…お前、何を…」
雅は混乱した表情で蓮を見た。
「説明は後で。先輩、今日は家に帰ってください」
「でも…」
「お願いします」
蓮の真剣な目を見て、雅は頷いた。
「…分かった」
雅はふらふらと立ち上がり、生徒会室を出ていった。
蓮は一人、残された。
「やばい…」
体が限界だった。
視界が霞む。
「クヤ…」
「よく頑張った。今日はもう休め」
クヤの声が遠くなっていく。
蓮は床に倒れ込んだ。
意識が、遠のいていく。
「まだ…大樹を…」
それが、最後の言葉だった。
10
「蓮くん!蓮くん!」
誰かが呼んでいる。
蓮はゆっくりと目を開けた。
「美月…?」
美月の顔が、目の前にあった。
「よかった…意識が戻った」
美月は泣きそうな顔をしていた。
「ここは…」
「保健室。私が見つけて、先生と一緒に運んだの」
蓮は体を起こそうとしたが、体が重い。
「無理しないで」
「…何時?」
「もう七時だよ。学校、ほとんど人いない」
七時?
蓮は倒れてから、二時間も経っていたのか。
「大樹は…」
「お見舞い行ったよ。元気だった。明日には退院できるって」
「そっか…」
蓮は安心した。
大樹は、無事なんだ。
「蓮くん、何があったの?」
美月が心配そうに聞いた。
「生徒会室で倒れてたって聞いたけど」
「ちょっと…体調悪くて」
蓮は嘘をついた。
本当のことは、まだ言えない。
「そう…無理しないでね」
美月は優しく微笑んだ。
しかし、その背後の緑色の靄は、昼よりも濃くなっている。
「美月も…危ない」
蓮は思った。
早く、美月も救わないと。
「帰れる?」
「ああ、大丈夫」
蓮は立ち上がった。
ふらついたが、何とか歩ける。
「一緒に帰ろう」
「うん」
二人は保健室を出た。
廊下は暗く、静かだった。
下駄箱まで歩く間、美月がぽつりと呟いた。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「最近、変な夢見るの」
蓮の心臓が跳ねた。
「どんな夢?」
「誰かが、私に話しかけてくる夢。『癒せ』『守れ』って」
やはり。
美月も、神に狙われている。
「それで、今日病院で木下くんを見て思ったの」
「何を?」
「私、みんなを守りたいって」
美月は蓮を見た。
その目は、真剣だった。
「蓮くんも、木下くんも、神宮寺先輩も。みんな、最近苦しそう」
「私に何ができるか分からないけど、でも、みんなを守りたい」
蓮は胸が苦しくなった。
美月の優しさ。
それが、癒しの神を引き寄せている。
「美月…」
「変かな?」
「ううん、変じゃない」
蓮は首を横に振った。
「でも、無理はしないで」
「うん」
美月は笑顔を見せた。
二人は下駄箱に着き、靴を履き替えた。
外は、もう真っ暗だった。
「じゃあ、気をつけてね」
「ああ、美月も」
二人は別れた。
蓮は一人、夜道を歩いた。
街灯の光が、道を照らしている。
「クヤ」
蓮は心の中で呼びかけた。
「今日は、よく頑張った」
クヤの声が答えた。
「でも、まだ終わってない」
「ああ。明日から、本当の戦いが始まる」
「分かってる」
蓮は空を見上げた。
星が、見えない。
曇っているのか。
「大樹、雅、美月、家族。みんなを守る」
「そのためなら、俺は戦う」
「…いい覚悟だ」
クヤの声に、かすかな温かみがあった。
「お前なら、できる」
蓮は歩き続けた。
家まで、あと少し。
明日からの戦いに備えて、今日はしっかり休もう。
そう決めた。




