綻び
保健室。
大樹はベッドに横たわっていた。目を閉じ、荒い息をしている。
蓮はその横の椅子に座り、親友の顔を見つめていた。
「原因は分からないわ」
養護教諭が困惑した顔で言った。
「熱もない。外傷もない。でも、意識が朦朧としている」
「…大丈夫なんですか?」
「分からない。こんなケース、初めてで」
養護教諭は眉をひそめた。
「最近、体調不良で保健室に来る生徒が増えているの。でも、みんな原因不明。検査しても何も出ない」
蓮は黙って大樹を見た。
顔色は悪い。額には汗が滲んでいる。
そして、時々うわ言のように何かを呟いている。
「戦え…殺せ…」
小さな声だが、確かに聞こえる。
「大樹…」
蓮は親友の手を握った。
冷たい。まるで氷のように。
「少し様子を見ましょう。悪化するようなら、救急車を呼びます」
養護教諭はそう言って、保健室を出ていった。
蓮と大樹、二人きりになった。
静寂が保健室を包む。
時計の音だけが、カチカチと響いている。
蓮は大樹の手を握ったまま、考えた。
「お前のせいだ」
大樹はそう言った。
俺のせい?
何が俺のせいなんだ?
体育館で見た、あの赤黒い靄。大樹の背後にあった。
朝、教室で暴れた生徒の背後にも、同じものがあった。
あれは何だ?
そして、なぜ俺のせいなんだ?
「…分からない」
蓮は呟いた。
何も分からない。
ただ、確かなことが一つだけある。
大樹が苦しんでいる。
そして、それは昨日からの異変と関係がある。
「頼む、教えてくれ」
蓮は誰にともなく呟いた。
「何が起きてるんだ。どうすればいい」
沈黙。
誰も答えてくれない。
蓮は目を閉じた。
頭が痛い。体も重い。
このまま、自分も倒れてしまうんじゃないか。
そう思った瞬間。
頭の中で、声が聞こえた。
「……すまない」
蓮は目を開けた。
また、あの声だ。
昨夜も聞いた。部屋の影から聞こえた声。
「誰だ」
蓮は小さく呟いた。
「誰なんだ。何者なんだ」
声は答えない。
ただ、静かに響いている。
「すまない…すまない…」
謝っている。
何に対して?
「答えてくれ」
蓮は心の中で叫んだ。
しかし、声は消えていった。
蓮は項垂れた。
何も分からない。
9
放課後。
大樹は救急車で病院に搬送された。
蓮も同行しようとしたが、「家族が来るまで待機してくれ」と教師に言われ、学校に残された。
教室に戻ると、クラスメイトたちが不安そうにざわついていた。
「木下、大丈夫かな」
「あんな木下、初めて見た」
「最近おかしいよね、みんな」
みんな感じている。何かがおかしいと。
でも、誰もその原因を知らない。
蓮は自分の席に座った。
窓の外は、まだ雨が降っている。
「蓮くん」
美月が声をかけてきた。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「ああ、大丈夫」
嘘だった。全然大丈夫じゃない。
「木下くんのこと、心配だよね」
「…うん」
「でも、きっと大丈夫だよ。木下くんは強いから」
美月は笑顔を作ろうとしたが、その目は不安で曇っていた。
「美月も、疲れてるだろ」
「うん…昨日、あんまり眠れなくて」
美月は小さく笑った。
「変な夢見たの。誰かが私に『守れ』って言うの。何を守るのか分からないんだけど」
蓮の心臓が跳ねた。
美月も?
「夢、か」
「うん。でも、すごくリアルで。まるで、本当に誰かが話しかけてきたみたいで」
美月は首を振った。
「疲れてるだけだよね」
「…そうだな」
蓮は窓の外を見た。
雅も夢を見ている。美月も。
そして、自分も。
偶然じゃない。
何かが、起きている。
「じゃあ、私もう帰るね。蓮くんも、無理しないでね」
「ああ、ありがとう」
美月は教室を出ていった。
蓮は一人、残された。
教室は静かだ。
もう、ほとんどの生徒が帰ったようだ。
蓮は立ち上がり、荷物をまとめた。
早く帰ろう。
家で休めば、少しは楽になるかもしれない。
廊下を歩く。
誰もいない。
足音だけが、コツコツと響く。
下駄箱に着いた。
靴を履き替えようとしたとき、ふと視線を感じた。
振り返る。
誰もいない。
「…気のせいか」
蓮は靴を履き替えた。
玄関を出ると、雨はまだ降っている。
傘を差して、歩き出した。
商店街を通る。
人通りは少ない。雨のせいだろう。
八百屋は、まだ閉まっている。
蓮はその前で立ち止まった。
シャッターに、また新しい貼り紙がある。
『長期休業いたします』
長期?
おじさん、大丈夫だろうか。
蓮は不安になった。
この街全体が、何かに侵されている気がする。
歩き続ける。
その先の路地で、また声が聞こえた。
「ふざけんな!」
「お前が悪いんだろ!」
また喧嘩だ。
蓮は足早にその場を離れた。
関わりたくない。
家まで、あと少し。
しかし、歩けば歩くほど、違和感が増していく。
街の空気が、重い。
まるで、何かに押しつぶされそうな。
蓮は立ち止まった。
周囲を見回す。
誰もいない。
でも、何かがいる。
そんな気がする。
「…早く帰ろう」
蓮は走り出した。
10
自宅。
玄関のドアを開けると、家の中は静かだった。
「ただいま」
返事がない。
誰もいないのか?
リビングを覗くと、母親がソファに座っていた。
テレビはついているが、音は聞こえない。
母親は、ただぼんやりと画面を見つめている。
「母さん?」
「あ、蓮。おかえり」
母親は振り返った。その顔は疲れている。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
母親は笑顔を作ったが、その笑顔はどこか空虚だった。
「父さんと葵は?」
「お父さんはまだ会社。葵は部屋にいるわ」
「そっか」
蓮は自分の部屋へ向かおうとした。
「蓮」
母親が呼び止めた。
「最近、変な夢見ない?」
蓮は振り返った。
「夢?」
「ええ。私、ここ数日、変な夢ばかり見るの」
母親は不安そうに言った。
「誰かが話しかけてくる夢。『癒せ』『守れ』って」
蓮の体が硬直した。
母親も?
「でも、夢よね。気にしすぎかしら」
「…そうだね」
蓮はそれ以上何も言えなかった。
自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
ベッドに倒れ込む。
頭がぐちゃぐちゃだ。
雅、美月、母親。
みんな、変な夢を見ている。
誰かが話しかけてくる夢。
そして、自分も。
「これは…夢じゃない」
蓮は呟いた。
「何かが、起きてる」
部屋の隅を見る。
そこに、また影がある。
濃い、黒い影。
昨夜見たものと同じ。
蓮は立ち上がり、影に近づいた。
「お前は誰だ」
影は答えない。
「答えろ。お前は何者なんだ」
影が、ゆっくりと揺れた。
そして、声が聞こえた。
「…俺は、最厄」
蓮の心臓が止まりそうになった。
「最厄?」
「お前の中にいる」
影が形を変え始めた。
人のような形になっていく。
しかし、顔は見えない。ただの黒い輪郭。
「俺の中に…?」
「ああ。お前は俺の器だ」
器?
それは、何を意味する?
「何の話をしてる。意味が分からない」
「分からなくて当然だ。お前は、まだ何も知らない」
影──最厄と名乗る存在は、静かに続けた。
「だが、時間がない。もうすぐ、奴らが来る」
「奴ら?」
「神々だ」
神?
蓮の頭が混乱する。
「待ってくれ。神って、何の話を」
「お前の周りで起きている異変。すべて、神々が原因だ」
最厄は淡々と語る。
「神々は人間を器にして、力を与える。お前の友人も、生徒会長も、クラスメイトも、母親も。みんな、神の器になろうとしている」
「そんな…」
「信じられないのも無理はない。だが、事実だ」
蓮は後ずさった。
神?器?
何を言っているんだ、こいつは。
「落ち着け」
最厄の声は、冷静だった。
「お前が混乱するのは当然だ。だが、俺は嘘を言っていない」
「証拠はあるのか」
「お前が見たものが証拠だ。赤黒い靄。あれは、神の力だ」
蓮は息を呑んだ。
あの靄。
確かに、暴れた生徒の背後にあった。大樹の背後にも。
「あれが…神?」
「神の力の一部だ。器になった人間の周りに現れる」
最厄は続けた。
「そして、お前の中には俺がいる。最厄と呼ばれる、神々が最も恐れる存在が」
「なんで俺なんだ」
「それは、神々が選んだからだ」
「選んだ?俺は選ばれた覚えなんて」
「選択権は、人間にはない」
最厄の声は、容赦がなかった。
蓮は膝から崩れ落ちた。
理解できない。
でも、何かが起きていることは確かだ。
「これから、どうなる」
蓮は震える声で聞いた。
「戦争が始まる」
「戦争…?」
「お前を巡って、神々が争う」
最厄は静かに告げた。
「七つの勢力が、それぞれの思惑でお前を狙う」
蓮の頭が真っ白になった。




