食パンは咥えて走れ!
「はぁ、今何時だ」
今日は高校一年生の入学式の日なのに、妹に強烈なアッパーを喰らわされて、洗面所の床に泡を吹いて倒れ込んでいた。
強烈な痛みは引いたが、随分と長い時間床に倒れ込んでいた気がしたので、すぐに自分の腕につけていた腕時計で時間を確認した。
「8時20分……だと……」
入学式初日は8時半から体育館に集まり、入学式の集会があるらしいが、それまでのタイムリミットはあと10分となっていた。
ここで疑問なのが、なぜ妹は起こしてくれなかったのか、ということだけど──あんなことをしてしまった以上、怒って無視しているのは問答無用だろう。今朝の自分がとにかく憎い。
「お兄ちゃん、まだそこで寝てるの? もう行くよ!」
「えっ」
なんていうことでしょう。
妹が今、8時20分になったというのに、まだ家にいるなんて。確か中学の入学式の式典準備を担当していたんじゃなかったのか。
「お前、入学式の準備があったんじゃ……」
この俺の無礼な行為をされたにも関わらず、見捨てない精神。しかも、重要な学校から与えられたクエストよりも兄を優先してくれるなんて、なんていい妹に育ったんだ。
「あっ、忘れてた! 急がないと!」
妹は単に忘れていただけだった。そして、またしても未熟な兄をこの洗面台に置いていったのであった。
「あと、これあげる」
妹は俺の口に何かを詰めて、学校へと行ってしまった。
「ん?」
何か柔らかく、温もりがあり、さっきまでどこか温かい所に置いてあったかのような代物。
「まさかこれは……しょくぱん!?」
これはさっき見たエロ漫画によると、入学式当日は食パンをくわえながら走る人は、十字路などでパンをくわえている異性とぶつかるという伝説があるらしい。
しかも、ただそれだけじゃその効果は発揮されない。
今まさに俺が置かれている状況のように『遅刻』が大きな鍵となっている。
慌ただしく家から駆け出し、あと数分で遅刻になってしまうというタイムリミットが迫る中の緊張感だからこそ、人々は食パンをくわえて走る。そしてぶつかる。
「そうとなれば行動だ」
妹から託された食パンをきちんとホームポジションにセットして、靴紐をキツく締め、家を駆け出す。
「いってきます!」
遅刻するまでのタイムリミットは残り7分くらいとなってしまった。
幸いなことに高校受験のときに、家からいちばん近いところを選んだので、走れば2分くらいで着くことができる。
だが、最短距離で行くと十字路や街角のぶつかるシチュエーションが4個くらいしかない。
これだと期待値的に……0.2人くらいとしか出会えない。
適当を言ってるんじゃないって? 俺はきちんと計算したんだぞ。
学園ラブコメにおける「食パン×遅刻×角=出会い」の成立率は、全体の5%未満。
(※絵路 杉による青年向け視覚媒体作品におけるロマンス発火イベント統計調査)
つまり、仮に100人が同じ行動をしても、実際にぶつかれるのはせいぜい5人以下。
4回しか角を曲がらない俺は、4 × (5/100) = 0.2人。
冷静に計算したら、奇跡が起きないと遭遇はない。実際にほとんどのエロ漫画では、食パンをくわえて、ヒロインと主人公が街角で通り過ぎてしまっている。
1人に出会うために必要な角の数は最低でも、そう……20角になる。
そうなると、遅刻を恐れて最短ルートで進んでしまえば、このオペレーション・トーストは失敗になってしまう。
残り時間を考慮して、角を最低でも20個駆け巡ることができるルートを考え、最適解を選ばないとならない状況下に置かれてしまっている。
この決断で高校人生が左右されると言っても過言ではない。
実は中学時代、何もなく、平凡に過ごしてきた。
そのような退屈な日々に、何か一粒の光を加えたいと思い読み始めたのがエロ漫画だった。
あのときの感動は今でも忘れられないし、忘れたくない。
僕にとってこの本は、人生を変えてくれた。
その本に書いてあることが、またしても俺の人生を豊かにしてくれる。この機会を逃せば、また中学のときと同じになってしまうかもしれない。
「やるっきゃないな」
タイムリミットはあと5分となったが、パンはまだ温かい。
今、俺は確かに“何か”を探して走っている。
それは恋かもしれないし、奇跡かもしれない。
あるいは、ぶつかった相手に「パンくわえて走るとか古すぎるだろ」と鼻で笑われる未来かもしれない。
それでも構わない。
この一歩が、昨日の俺とは違う“今日”に連れていってくれるのなら。
俺は、走る。