第84話 夏の日の夜
ホームルームが終わり。
日直が席を立つ。
「起立、礼――」
全員が頭を少しだけ下げ、いつも通りの言葉が続くと思われた、そのとき。
「さよ「「「「「ぃやったぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」」」」」
みんながプリントを頭上に投げ捨て、白い紙がひらひらと舞う。
まるで海外の学校みたいなノリ。
でも、そんな開放的な気分になっても無理はない。
むしろ正常だ。だって――
「「「「「夏休みだぁあああああああああああああああああああ!!!」」」」」
テストが終わり、遂に迎えた夏休み。
学生が一年の中で一番嬉しい瞬間が、きっとこの瞬間だと思う。
「大変なことばっかりだったけど……頑張ってよかった!」
「今日という日を、俺はきっと忘れない」
(大げさじゃないか?)
異様に喜んでいる秋斗と波留を見て、内心ツッコむ。
「夏休みの俺たちは無敵だぁああああああ!」
「最高! 夏最高!!!」
「静かにしろ!!!」
先生が声を張り上げる。
しかし、みんなのテンションは下がることを知らない。
むしろどんどん熱は増していき、天井無しの確変モードに突入していた。
「と、都会ってすごいな」
田舎にいたときも確かに盛り上がったが、ここまでの熱量はなかった。
もはや生きる自由を手にしたくらいのスケールじゃないとおかしい。
やっぱり、都会って変だ。
田舎も変だから、世の中変でしかないんだけど。
各方面から歓喜の声が聞こえてくる中、ちらりと猫谷さんの方を見る。
猫谷さんも嬉しそうに笑っていて、近くの生徒たちと盛り上がっていた。
「!」
猫谷さんが俺の視線に気が付き、目が合う。
いつもより二割増しで楽しそうに、小さく手を振ってきた。
「あははっ」
騒がしい中、俺も振り返す。
なんだかそれがおかしくて、同じタイミングで笑った。
「「「「「わっしょい!!! わっしょい!!!」」」」」
いつの間にか教卓の前で胴上げされている先生。
ほんと、いつの間にすぎる。
「やめろ……やめろぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
その後、胴上げは五分続いた。
それでも「夏休みだからな」と許してくれる辺り、先生も浮かれていたんだと思う。
その日の夜。
またしても母さんにつまみのおつかいを頼まれ、家を出る。
(最近、俺を使うことに味をしめてる気がするな)
代わりに猫谷さんと家でくつろぐことを許可されているから、いい条件ではあるけど。
なんてことを考えていると、気づけばエレベーターの前あたりにまで来ていて。
扉の前で立っている人に気が付く。
「猫谷さん?」
「あ、桐生くん」
声をかけながら、俺は驚いていた。
ダルっとしたTシャツに、ショートパンツ。
紫色の長い髪は一つにまとめられていて、素足にサンダルというスタイル。
白くてふにっとした、柔らかそうな足が惜しげもなくさらされていた。
(ら、ラフだ……!)
雷に打たれたような衝撃を受ける。
「今からどこか行くの?」
「か、母さんに頼まれてコンビニに」
「そうなんだ。実は私もお菓子買うためにコンビニ行こうとしてたんだ」
「じゃあ同じだな」
一拍置いて、「ん?」と引っ掛かる。
「今からお菓子?」
「……はっ! その……夏休み始まったし、今日くらいはいいかなって」
「な、なるほど」
ご褒美的な感覚なんだろう。
それにしても猫谷さん、ほんとお菓子好きだな。
エレベーターが到着し、ポンっと明かりがつく。
乗り込む直前、猫谷さんの恰好を見て素直に思ったことを言うべきか迷った。
しかし、迷ったときにはやって後悔しようというのが俺。
「猫谷さん」
声をかけると、猫谷さんが足を止めて振り返る。
「ラフな猫谷さんも可愛いけど、外に出るときは気を付けて。猫谷さんに何かあったら俺、嫌だから」
ぽかんとする猫谷さん。
俺も言葉が足りなかったなと思ったが、補足する前に猫谷さんが「ふふっ」と笑みをこぼした。
「……うん、心配してくれてありがとう」
ちょっと嬉しそうな猫谷さん。
どうやら言いたいことが伝わったらしい。
でも、確かに心配なのだ。
これだけ可愛い子が、ラフで無防備な格好で外に出るのは。
欲を言えば、俺だけに見せてほしい、なんて傲慢なことを思ってしまうけど。
「ふふっ」
心配されたのが嬉しかったらしい猫谷さんは、「今度から気を付ける」と言ってエレベーターに乗り込んだ。
コンビニを出て、マンションへの道を歩く。
とはいえ、もうすでにマンションは見えていて。
あと一分も経たないうちについてしまう、短い道のり。
「…………」
「…………」
袋を下げて、夏の夜風を浴びる。
こうして偶然会えただけでも嬉しいのに、人というのは欲張りなもので。
もっと一緒にいたいと、物足りなさを感じてしまう。
「あのさ」「ねぇ」
声が重なる。
それから無言で譲り合う空気が生まれる中、ふと近くの公園が目に入った。
「あのさ、猫谷さん」
「たぶん、同じこと考えてる」
猫谷さんが公園を見ながら言う。
「まだ一緒にいたいから、公園でも行かない?」
「ふふっ、やっぱり」
上機嫌に笑う猫谷さん。
同じ気持ちでいたことが嬉しくて、手を繋ぎながら公園へと向かい。
ベンチを見つけては、座ろうと腰を下ろした――そのとき。
「「あ」」
同じタイミングで、遠くのカップルが目に入る。
しかもそのカップルは抱き合い、両手で頬に触れ。
そして溶け合うように、キスをした。
「っ!!!」
生々しい光景に、猫谷さんの顔が真っ赤になる。
俺と目が合うと、慌てて距離を取ろうとしてふらついた。
「きゃっ」
咄嗟に猫谷さんを両手で抱きとめる。
「「ッ!!!」」
偶然にも、俺と猫谷さんの体勢はさっきのカップルとほとんど同じで。
鼻先が触れるくらいに近く、互いの体温を最も近い距離で感じた。
「…………」
「…………」
見つめ合う。
心臓はドクドクと鳴っていて、猫谷さんの大きな瞳がわずかに揺れていて……。




