第57話 始めたばかりだけど
急いで廊下を走り、来た道を戻る。
いつの間にか人の気配がぐんと減ってしまった校内。
校庭や校舎から、かすかに部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえる。
「はぁ、はぁ……」
やっと到着した教室。
しかし、教室には生徒が一人もおらず。
猫谷さんすらいなかった。
「あれ?」
でも鞄は机の横にかかっているし、机の上にレポートは広げられたままだ。
なら一体、猫谷さんはどこに行ってしまったんだろう。
「うーん……」
「桐生くん?」
「うおっ」
背後から声をかけられ、咄嗟に距離を取る。
振り向くと、そこにはきょとんとした猫谷さんが立っていた。
「ね、猫谷さんか」
「……ふふっ、桐生くんが驚いてた。それも、かなり……ふふっ」
そんな面白いことしてないと思うぞ、俺。
たまに猫谷さんは予期しないツボに入るときがあるんだよな。
「どこ行ってたんだ?」
「飲み物買いに行ってたの。いちごみるく」
「いちごみるく……え、いちごみるく?」
「知らない? 甘くて、その……とにかく甘い飲み物?」
どうやら猫谷さんもよくわかっていないらしい。
ちなみに、俺はこの商品を人生で初めて見た。
田舎のスーパーに、コアな層向けっぽい商品はあまりないからな。
その代わり、あまりにもニッチすぎる商品は割と置いてある。
「どうして桐生くんがここにいるの? カラオケ行ったんじゃないの?」
「あぁ、それなんだけど……断り入れて、戻ってきた」
もちろん、直接山田たちに事情を話し、了承をもらったうえで戻ってきている。
ちなみに、そのときの山田たちは、
「あはははっ! 桐生らしいね」
「むしろ行って来い!」
「私もそれがいいと思う」
「付き合いたてだしね」
と、快く送り出してもらった。
秋斗と波留も同様で、なんなら二人はどういう訳かさっきまでいたためよく知っており。
でしょうね、という顔で笑っていた。
「そ、そうなんだ……別によかったのに」
確かに、俺は猫谷さんに行ってきていいと太鼓判を押された。
しかし、どうしても気になって仕方がなかったのだ。
「寂しくさせないって、約束したからな」
「っ!」
ビクッと肩を震わす猫谷さん。
目を右往左往させ、やがて斜め下に落ち着く。
「……もう」
一歩踏み出し、俺の胸をぽんと叩く。
もちろん、全く痛くない。
そのまま猫谷さんはあの日のように俺の胸に頭を置いた。
「…………ありがとう。嬉しい」
そう言う猫谷さんの顔は、やはりほんのり赤かった。
猫谷さんの前の席の椅子を借り、二人でレポートに向き合う。
どうやら猫谷さんは理科科目、物理や化学が苦手なようで、レポートにも苦戦していたらしい。
「ナトリウムとか塩酸とか、全然イメージ湧かないんだもん」
「あははは……」
膨れっ面で文句を言う猫谷さん。
「でも、学年一位の桐生くんがいてくれるなら安心だね」
「できる限り頑張るよ」
それから、猫谷さんがレポートを書いていくのを見守りつつ、たまにわからないところを教える形で進めていく。
ときおりカーテンが風で靡き、オレンジ色の夕陽の光がちらちらと揺れる。
遠くからはぼんやりと部活動だろう掛け声が聞こえていて、吹奏楽部のトランペットがポップに聞こえてくる。
放課後の景色。
少し前までいた田舎とはまるで違う場所なのに、この景色だけは変わらない。
都会も田舎も、放課後は同じなのだ。
「なんか、体育祭のときのことを思い出すな」
「突然だね」
「突然思い出してさ」
体育祭のあと、猫谷さんのスマホを一緒に探した思い出。
確かその後、着替えてから教室で待ち合わせして、打ち上げに行ったのだ。
「たぶん、あの頃から猫谷さんのこと意識し始めたんだろうな。一人の女の子として」
「っ⁉ ……す、すごく突然だね」
「あははは、そうかもしれない」
穏やかで心地いい時間に背中を押され、思わず口から出てしまう。
「あ」
不意に感じる、右手に重ねられた柔らかな感触。
猫谷さんはペンを持つ方とは逆の手で、俺の手をやんわりと握っていた。
「レポートは?」
「ちょっと休憩」
「始めたばかりなのに」
「……始めたばかりなのに」
口先を尖らせて言う。
本当に猫谷さんは甘えたがりだ。
でも、それを求めていた自分がいたことに気が付く。
――始めたばかりなのに。
確かに、その通りだ。
でも、いいじゃないか。
すこしくらい、は。
「ふふっ、元気出る」
「俺もだよ」
「桐生くん、元気必要なの?」
「あるだけ損ないかなって思って」
「ふふっ、そうだね」
猫谷さんがクスっと笑う。
俺はそんな恋人の一番可愛い顔を、特等席で見るのだった。
その後、無事レポートを提出することができた。
予定よりは少し遅くなってしまったが、結果オーライである。
♦ ♦ ♦
猫谷さんと付き合い始めて、二週間が経った。
周囲も付き合い始めた当初よりは落ち着き、特に何か起こるわけでもない、平穏な都会生活を過ごしている。
気温はどんどん上がっていき、ブレザーからワイシャツへと変わった。
大きな変化と言えば、それくらいだ。
(ほんとにいい天気だな)
昼休み。
飲み物を買ったついでに中庭を歩く。
「よいしょっ」
ふと視界に入る、一人の女子生徒。
青寄りの黒髪を一つにまとめていて、上履きの色からして一年生だろうか。
何やら重そうな土の入った袋を、顔を歪めながら運んでいた。
(さすがに女の子一人で運ぶ量じゃないな)
俺も土を運んだことがあるからよくわかる。
じいちゃんばあちゃんの畑仕事を手伝うことなんて日常茶飯事だったし、今では少し懐かしいが、ぱっと見でどれくらい大変かは察することができた。
(さすがに見過ごせないな)
田舎から学んだのは助け合いの精神。
他人感がどこかある都会でも、忘れてはいけないだろう。
むしろfrom田舎として、見て見ぬふりなどできない。
「あの」
謎の使命感に駆られて声をかけると、女子生徒がぴたりと立ち止まる。
俺の方を見ると、眉間にしわを寄せ、心底警戒した様子で言った。
「え、なんですか?」
「っ!」
め、めちゃくちゃ睨まれてる……こ、怖い。




