第51話 一緒に行きたい
洗面台に水が流れる。
手のひらで器を作り、溜まった水を顔に浴びせ、いくらかスッキリした顔を上げた。
鏡に寝起きの顔をした俺が映る。
「遂に、か」
今日は運命の日。
そう――校外学習当日だ。
言うまでもなく、この日は俺の人生史に刻まれる日になる。
誰かを好きになって、告白しようと思ったのは生まれて初めてなのだから。
「…………」
自分の顔が少しにやけている。
それも仕方がない。
ついこないだ。
猫谷さんは校外学習の後、二人で遊ぶことを「いいよ」と言ってくれた。
それも、通りかかった女子生徒のせいというか、おかげというか。
誘うことはつまり告白を意味するような状況になった。
それでも、猫谷さんは俺の誘いに対して頷いてくれたのだ。
(それは、つまり俺と……)
一瞬考えがよぎり、慌てて首を横に振る。
(この考えはダメだ。俺の願望が入りすぎてる)
告白とほぼ同然、という空気は流れていたが、猫谷さんがどう受け取ったかは言葉になっていないからわからない。
ただ猫谷さんにとって俺は仲のいい友達で。
だから告白同然の空気など関係なく、遊びたいと言ってくれたのかもしれない。
もはや女子生徒の言葉を聞いてなくて、その空気をわかってなかった可能性だってある。
すべてははっきりと言葉にして、お互いに分かり合わないとダメなのだ。
「……でも」
ふと思い出すのは二日前のこと。
猫谷さんが人気の少ない渡り廊下で、男子生徒と話しているところを偶然目撃したのだが……。
「校外学習の後、俺と遊ばないか?」
「ごめんなさい。約束してる人がいるから」
猫谷さんはきっぱり断った。
つまり、猫谷さんは俺と遊ぶために、俺と遊びたいがために断ってくれたわけで。
いや、これも俺の期待とか願望が入ってるのか。
でも……。
期待はどんどん膨らんでいき、押さえつけるようにバシャバシャと顔に水を浴びせる。
「旭ー? コーンスープか中華スープのどっちが……って、顔十個分くらい洗ってるじゃん」
母さんが「コーンスープにしちゃうからねー」と言いながら、洗面台から離れていく。
今はどっちのスープがいいとか、考えてる場合じゃない。
今日は猫谷さんに告白する。
今日は、猫谷さんに告白する。
制服に着替え、少し早くマンションを出る。
集合場所になっている駅は、最寄り駅から電車で十五分ほど。
しかし、ほとんど電車に乗らない俺が迷わないとは限らないので、余裕を持っての時間設定だ。
エントランスを抜け、外に出る。
「あ」
するとマンション入り口の端の方から声が聞こえた。
「猫谷さん?」
猫谷さんが俺を見るや否や、てくてくと近寄ってくる。
すぐに俺の横にちょこんと収まった。
なんだこれ。
朝からあまりにも可愛すぎるだろ。
「おはよう、桐生くん」
「お、おはよう。どうして猫谷さんがここに?」
察するに、マンション入り口で誰かを待ってた感じだよな?
なんて思っていると、猫谷さんは恥じらいながら、
「桐生くんを待ってたの」
「え、俺を?」
「うん。……桐生くんと一緒に行きたいって思って」
「っ!」
あまりに不意打ちすぎる右ストレートに、ダウンしそうになる。
俺の中にあった期待が一気に膨らんだ。
「そ、そうなんだ。連絡してくれればよかったのに」
「それはなんか……違う、から」
猫谷さんが耳を赤くさせてそっぽを向く。
どうやら猫谷さんは、まず耳が赤くなるらしい。
そんなところも可愛い。
いや、すべてが可愛い。
こうやって照れているところも、俺を待ってくれていたことも。
一緒に行きたいと言ってくれたことも、俺を見つけて嬉しそうにしていたことも。
好きという感情は、留まることを知らない。
一番身近にある無限は、きっと好きという感情だろうなと思った。
「そっか」
「……うん、そう」
猫谷さんが俯く。
俺は思わず、猫谷さんの頭を撫でた。
「っ⁉」
ビクッと体を震わす猫谷さん。
俺はとろとろと溢れてくる温かい感情に浸りながら、思いついたままに言葉にした。
「ありがとう、猫谷さん。俺、猫谷さんに待ってもらえてすごく嬉しいよ」
「っ!!!」
抵抗もされなかったので、そのまま猫谷さんの頭を撫で続ける。
「…………」
しかし、猫谷さんは俯いたまま黙り込んでしまった。
さすがに様子がおかしいと思い始める。
(もしかして俺、また変なこと言ったか? あまりにも嬉しすぎて、かなり感情高ぶってたし……)
猫谷さんにおいて、自制というものが効かなくなっている気がする。
つまり、あまり我慢とか、よく考えてから行動するということが出来ていない。
「…………よかった」
そうとだけ呟くと、猫谷さんが顔を上げる。
俺も手を離した。
「そろそろ行こっか」
「あ、あぁ。そうだな」
猫谷さんが歩き出し、俺もついて行く。
どうやら嫌な気持ちにはさせていないらしい。
心底よかったと思いながら、猫谷さんと並んで歩く。
「今日の猫谷さん、なんだか雰囲気が違うね」
「わかる?」
「髪を少し巻いてる?」
「正解! 気づいてくれるんだ」
「いつも見てるからな」
「っ!」
「?」
「…………もう」
まだ誰にも開けられていない、真新しい朝の空気。
猫谷さんと二人、ときおり肩が触れてしまいそうな距離感で歩いていく。
――今日は運命の日。
俺が猫谷さんに告白する日だ。




