#4「ハロウ・マルモン、或いは真実を嗤う者【2】」
「断る理由などございません。彼女がここに立っていることもまた、偉大なる導きゆえ……」
エグラントのその言葉に、オリアネッタは違和感を抱いた。彼にしては随分と従順であるように思ったのだ。ハロウ・マルモンなるかぼちゃ頭が、その剽軽な見た目に反して非常に位の高い聖職者であることは、オリアネッタにも理解できた。誰かの来訪に立ち会ったのは初めてではない。《聖者の間》の壁際には《癒しの泉》が湧き出ている。ルヴァニアの癒しの力を宿す水と伝え説かれ、怪我をしたときはそこで傷口を洗う習慣になっているから、その際に来客と顔を合わせることもある。《聖者の間》は聖ルヴァニア修道院の心臓部であると同時に玄関を兼ねている。外部から訪れた者は、ここ《聖者の間》で修道者の《歓迎の祈り》を受ける。今行われているものがそうだ。しかし普段は修道者は床に跪かないし、ここまで大きく頭を垂れることもない。歓迎の言葉を述べるのも修道士と修道女の役目であり、先程のように修道院長が直々に行うのは初めてのことだった。ハロウ・マルモンはそれほどまでに偉大な存在なのだろう。或いは畏怖の対象なのか。しかしそれを差し引いても、エグラントの従順さをオリアネッタは不可解に思った。それがハロウの特殊な魔力によるものだということなど、このときのオリアネッタには知る由もない。
「……オリアネッタ。聖水を持ってこちらに来なさい」
「はい、修道院長様」
オリアネッタは顔を上げ、エグラントに従った。
両手で包み込むように小瓶を手にすると、改めて二人の来客に視線を向ける。
ハロウの仮面がかすかに揺らめいた。《灯火の復誕祭》の仮装のように見えた仮面は、魔力で造り上げられた実体のない虚像だとオリアネッタは直感した。南瓜を模した仮面に開いた三角形の目の中は夜の闇のように暗く、その奥で灰色の目玉が鈍く光っている。その目がこちらを見ていることにオリアネッタは気付いた。《ラザリスの門》の紋様の入った黒いローブを纏った彼の背丈はエグラントよりも高く、しかしそこから伸びる手は枯れ枝のように細い。いや、魔力で辛うじて手の形を保っているのか。彼の実体はとうの昔に失われたのかも知れない。《ラザリスの門》の司祭は皆、ネクロマンサーだ。中には自身を不死化している者もいるという。ハロウはその頂点に立つ最高指導者だ。死霊魔術師としての腕は底知れない。人の世の理を超越した存在が自分を見ているという事実に、オリアネッタは恐怖とも興奮ともつかないものを感じた。
「《永遠なる導師》ハロウ・マルモン殿。こちらがベリアス・アルカントの娘オリアネッタにございます。続く《聖水の儀式》はこの娘が執り行いますれば……」
エグラントの手にした聖杖の先端には、青白い光が灯っていた。
聖杖サンクトス・ヴァニエルは、善なる者が触れると青く、悪しき者が触れると赤く光ると言われている。
教会の教え説く善悪には何の意味もないのだとオリアネッタは冷ややかに思った。そんな彼女をハロウは無言で、にやけた笑顔の張り付いた仮面越しに見下ろしている。
オリアネッタは小瓶の蓋を開け、あらかじめ教わったとおりの聖句を唱えながら、聖水をハロウ・マルモンの肩と胸に、そしてその傍らに立つプラチナブロンドの司祭にも、それぞれ三滴ずつ垂らした。癖のない白金色の髪を腰の辺りまで伸ばした司祭の背丈はオリアネッタとさほど変わらなかった。
「聖なる水は死者を安らぎへと導き、再び生を得る者に光を与える。貴方がたにルヴァニアの加護がありますように」
オリアネッタが言い終わると、エグラントが後に続く。
「ルヴァニアの聖なる力が貴方がたと共にあり、調和をもたらさんことを」
調和。その言葉にエグラントは力を込めた。まるで危険な来訪者を牽制しようとするかのようだ。しかしハロウの仮面に刻まれた表情が変わることはない。修道院長は聖杖をハロウの肩に置き、《歓迎の祈り》の締めとなる祈りの言葉を唱える。「深き闇より生まれし知恵を司る者よ、永遠に続く循環の理をもたらす者よ──」ハロウに触れても聖杖は青白い光を宿したまま。エグラントの厳かな祈りが《聖者の間》に響きわたる。「《ラザリスの門》の祝福を背負い者よ、貴方の歩む道が乱れることのなきよう、聖なる調和を」
調和。その言葉に再び力を込めながら、エグラントはハロウの肩から聖杖を離した。ハロウの仮面にぽっかり開いた半月型のつり上がった口が言葉や声を発することはなかった。青白く光る聖杖をエグラントは傍らの司祭に向ける。祈りの言葉を唱えながら、杖の先端で司祭の肩に触れる。その瞬間、《聖者の間》を揺るがすような地鳴りが響き渡り、聖杖サンクトス・ヴァニエルが赤く光った。