#2「来訪者」
絶えることのない水音に、扉の軋む音が重なる。誰かが《聖者の間》に入ってきた。しかしエグラントは振り向かない。ここ《聖者の間》には既に二十人に及ぶ修道士や修道女が集っている。彼らは聖遺物台を囲むように円座を組み、その中央に浮かぶ聖杖に祈りを捧げている。傍らに立つエグラントに注意を払う者はいない。まして、か弱い足音に円座が乱れることはない。ルヴァニアが使っていたと言われる聖杖サンクトス・ヴァニエルは、修道者たちの祈りを受け、淡い光を放っている。
軽く小さな足音がこちらに近づいてくる。『彼女』のものだと分かったが、気付いていないフリをした。待っていた、期待していた、そんな本心を知られるのは我慢ならない。「修道院長様」と囁くように呼びかけられて初めて、エグラントは天井のガラス絵から視線を外した。魔王の持つ黒い剣、《ルミナスブレイドの影》で胸を貫かれた勇者の姿を視界の外に追いやって、渋々といった体で声の主を見下ろした。
立っていたのは想像通りの相手、見習い修道女のオリアネッタだった。白いレースのヴェールの下には緩いウェーブの黒髪が流れ、透けるような白い肌をいっそう白く見せている。耳の端が尖っているのはエルフの血の影響だろうか。オリアネッタは美しく妖艶な少女だった。彼女は口元にうっすらと笑みを浮かべながら、目尻の上がった大きな目をエグラントに向けていた。ベリアスの碧眼とも、シルヴェリカの金眼とも違う、血のような赤い瞳。
エグラントの背筋に悪寒が走る。彼女には苦痛しか与えてこなかった。ベリアスの娘にとって自分は恐怖と嫌悪と屈辱の対象でありたかった。なのに何故、彼女はこうして微笑みかけてくるのか。おぞましい。そう思ったが、エグラントは己の本心を態度に出さないように努めた。勝者である彼にとって、敗者であるベリアスの娘は恐怖と嫌悪と屈辱の対象であってはならなかった。
オリアネッタはエグラントの袖を軽く引っ張って、背伸びをしながら耳元に口を寄せようとする。エグラントは軽く身を屈めた。オリアネッタは携えた篭を彼に見せながら、その耳元で囁いた。
「《再生の卵》の準備ができました。ご確認ください」
篭の中には色とりどりの卵が入っている。修道院で育てている鶏の卵の殻を再利用したもので、彩色された卵の中にはお菓子と紙片が入っている。紙片に記されているのは、小さな詩や祝福の言葉。《再生の卵》は修道士や修道女、修道院に引き取られた孤児たちの手作りで、《灯火の復誕祭》で市井の子供たちに配るプレゼントだった。それらの確認は修道院長の役目ではないが、エグラントは満足げに頷いた。……いやはや、オリアネッタは聞き分けがいい。二人きりになる口実を用意してくれた。これなら人目を憚る必要もない。
彼女に対して抱いたはずのおぞましさは消え失せていた。敗者が勝者に媚びるのは当然だ。エグラントはそのように考え、すっかり納得し切っていた。それに何より、オリアネッタは美しい。彼女に微笑みかけられて悪い気はしなかった。
エグラントは姿勢を正し、オリアネッタを横目で見下ろした。
「卵の確認はあちらでしよう。祈りの邪魔をしてはいけない」
院長室に通じる扉をエグラントが顎で示したとき、《聖者の間》全体に淡い金の光が満ちた。次いで、白い石床に青く光輝く魔法陣が現れる。転移魔法が作動した。人の出入りの制限された聖ルヴァニア修道院に、突如として外部からの来訪者が現れた。
【注釈】
この世界にはクリスマスもハロウィンもイースターもありませんが、それらの特色を併せ持った年中行事《灯火の復誕祭》が存在します。この行事は初代勇者の死と復活に由来します。