プロローグ「勇者ベリアスの死」
全ては悪い夢だった。そう錯覚しそうになる。
壁に生えた燭台の上で淡い光が踊っている。いつの時代のものなのか、誰の手によるものなのか。記録が失われた今も、上古の魔術で灯された炎が消えることはなく、絶えず形を変えながら冷たい石の大広間に陰影を添えている。勇者を讃える誰かの声に笑い声が重なって、もはや何を話しているのか聞き取れなくなっていた。白い石壁には王国旗がかかっており、魔術によって生み出された花が鮮やかに咲いている。勝利を祝う華やかな装飾。その下に血の跡があるなど、にわかには信じがたい。魔族の国を臨むここグレイヴフォート城塞では、古来より無数の兵が命を落としてきた。恋人だったルシエラもこの前線基地で戦死したが、もはやその痕跡を見つけ出すことはできないだろう。
しかし全ては悪い夢だ。魔王はもう死んだのだから、悪夢は終わりを迎えるだろう。ベリアスは目だけを動かして、宴の熱気に浮かされた大広間を見回した。魔王オルディミールに殺された先代勇者のルシエラが、何事もなかったかのような顔で戦勝祝賀会に現れるような気がして。
「浮かない顔ね、ベリアス。貴方は宴の主役なのよ」
「お言葉ですがシルヴェリカ王女、魔王討伐は私一人の力で成したものではありません」
「貴方は本当に模範的な勇者なのね」
ベリアスは王女の声色から皮肉めいたものを感じ取った。
エルフの血を引くシルヴェリカ王女は見た目こそ美しい少女だが、人間であれば老人と呼ばれるほどの歳月を重ねている。つまり年寄り特有の諧謔趣味のようなものだ、ベリアスはそう片づけた。
シルヴェリカはベリアスに微笑みかける。
「謙遜する必要はないわ。ルミナスブレイドの使い手を勇者として祭り上げ、救世主となることを求めたのは人間よ。貴方はその期待に応えたのだから、祝福を受ける権利がある。とはいえ……」
王女はいったん言葉を区切り、ベリアスの目をのぞき込んだ。
「易きには流されないのね。頼りになるわ。……ついてきて。内密の話があるの」
王女はベリアスの返事を待たず、椅子から立ち上がる。ベリアスは無言で従った。宴はたけなわで、上座に座する主賓二人の離席を気にする者はいない。傍らに立てかけていたルミナスブレイドを携えて、ベリアスは王女の後に続く。大広間の入り口付近に仮面をつけた人影が見える。国教の一宗派である《ラザリスの門》の司祭だった。素顔を人目に晒すことを戒律で禁じられた彼らは、暗がりに溶け込むように静かに佇んでいる。ありふれた光景だった。しかし、何かがおかしい。戦士として研ぎ澄まされたベリアスの直感が告げる。
「シルヴェリカ様、お供いたします」
若い男の声が、ベリアスの思索を打ち切った。大広間を後にした二人の前に現れた男は、王家直属の護衛騎士の制服に身を包んでいた。その顔を目にした途端、ベリアスの緊張はほぐれた。護衛騎士の顔に見覚えがあったからだった。
「エグラントじゃないか。随分と出世したな」
「おまえほどじゃないさ」
言葉とは裏腹に、エグラントの表情は自信に満ちている。何かがおかしい。再び直感がそう告げた。しかしその違和感の正体が分からない。エグラントはベリアスの幼なじみだった。《ラザリスの門》の家系に生まれ、勇者養成機関で共に修行に励んだ仲間。先代勇者のルシエラが死に、ベリアスが跡を継いでからはずっかり疎遠になっていたが、また、幼い頃のような笑顔を見られるとは思わなかった──
「ベリアス、話があるの」
シルヴェリカの呼び声に応じて、ベリアスは体の向きを変えた。
金属の擦れる音がして、急に胸が熱くなる。いったい何が起きたのか、すぐには理解できなかった。エグラントの抜き身の剣が、ベリアスの胸を背後から突き上げるように貫いても、シルヴェリカは穏やかな笑みをベリアスに向けていた。王女は何も言わなかった。しかしその顔は語っている。全ては計画通り。想定外の出来事など、何も起きてはいないのだと。
「英雄殿に生きていてもらっては困るのだよ」
エグラントは冷ややかに囁き、剣を引き抜いた。
ベリアスはようやく理解した。魔王の死によって、勇者の役目は終わった。いや、違う。魔王と勇者の双方が、王女にとっては邪魔だった。
崩れ落ちるベリアスのうめきを祝宴の喧噪がかき消した。視界の隅に《ラザリスの門》の司祭の姿が現れる。仮面とローブに覆われて顔も体型も分からないが、薄闇の中で白く輝く癖のないプラチナブロンドがルシエラに似ているような気がした。
「ベリアス……」
自分の名を呼ぶ悲しげな声。忘れるはずがない。亡き恋人の声だった。そうか、ルシエラが迎えに来たのか。ベリアスはかすかに安堵を覚えた。「ベリアスを危険な目に遭わせたくないの。わたしが勇者になれば、ベリアスは魔王と戦わずに済むのでしょう?」──そう言ってルシエラはルミナスブレイドを引き抜いた。迎えに来るということは、彼女は許してくれたのか。彼女に許されるだけの生き方はできたのか。
司祭は身を屈め、迷いのない動きでベリアスを抱き起こす。
……それにしてもこの司祭、小柄な割に随分と力がある。いや、適切な力のかけ方を知っているだけか。司祭になる前は兵士だったのかもしれないな。
その意味を理解する前に、ベリアスの意識は途絶えた。