後編
よろしくお願いします。
君は黙り込んだ。でも、またすぐに声を出し始めた。手ぶり身ぶりで感情を伝える君は可愛くて、なぜ私に懐いたのかが分からなかった。無口な私は君の前では明るく振り舞うことができたが、それも君がいたからで、君と最初に逢ったのは仕方ないからで、だって嫌でも、私の将来のために、拒否したくなかったの。刺激的で、腐敗した魚を思わせる酸味が、私の鼻腔に漂い、君のむせび泣く声が私の鼓膜で反響し合う中、本当に仕方なく、シーツをその口に詰め込む。君は無力な顎を動かしても、私は君の首を抑えたり、握ったりして、上から押し詰めて固くなり、染み出した体液が見えなくなるまで入れる。君の顔の輪郭は、婦人服店のショーケースに置かれたマヌキンのように、美形でシャープで無個性だった。
週末は中部地方を中心に雨になる予想です。冬の寒さはまだまだ続きますので、暖かくしてお過ごしください。すっ。すっ。マンション外の自動車の駆動音が、はっきりと聞こえる。徐行運転の車が何台も通過していき、私は君がマンションに到着するのを待っていて、時計を見ると五分過ぎてから、君はレンタカーの外車で、また私を東京に連れて行ってくれた。二人で相談して取った有給で、私たちはまた、もさっと、もさっと、いつもの銀座のカフェでケーキを味わってから、ドライブをして、その街並みを堪能して、有名なホテルに宿泊をしてみた。寝室から掛け時計の秒針の音が聞こえる。私は両目を瞑って、別の未来を考えてみる。でも思いつかなかった。ミソカ。君を産んだ時のことしか思い出せないよ。包丁で料理しないと。
子供部屋を出て、台所で包丁を握った。捌かれた切り身があり、これでは君と私のごはんなんて、足りない。握ったまま、二人用の食卓の椅子に座る。両足の震えを感じながら、君が帰った甘い時のことを考える。君はドアを開けて、いつものようにして、私を労わってくれるだろうか。
「お帰り。今日もお疲れさま。」
君の鼻筋が通った顔を思い浮かべる。今日もありがとうね。いつも家事任せてごめんね。プロジェクトは上手く進行しているよ。
「ううん。大丈夫よ。今日はカレーで、冷蔵庫にはケーキもあるのよ。」
ケーキ買ってくれたの。ありがとう。すごい楽しみ。手を放して、私は椅子から立ち上がり、洗面台へと向かう。自分の顔を見つめて、前髪を整えた。熱くなった眼頭に濡れたタオルを当てる。置かれた包丁を見つけると、休日にいつもお得意の洋食を作ってくれる君を思い出す。ソファーでミソカを抱っこしながら、私は『グレート・ギャツビービ』を見ていて、君は台所で君はハンバーグを作っていた。結婚を機にして、東京の近くに引っ越せば、もっと君と夜の街を遊覧できると思い、その翌週に、君と乗った観覧車のゴンドラ内で、夜光を反射して煌めいた二カラットとリングは、私が小さい頃に憧れていた恋愛ドラマの終盤で登場した。
「ミソカを連れてさぁ。家族で箱根でも行きたいな。」
「でも、途中でミソカが泣いたら困るよ。ミソカが大きくなるまでは我慢だね。」
「近くに親戚とかいるの。預かってもらおうよ。上司の鈴木とか。」
ベランダから春風が連れてきた排気ガスの匂いが鼻に刺す。
「この子は私がいないと、不安になってすぐに泣くって、この前に言ったじゃん。君が抱いた瞬間に泣き始めてさぁ。この子は手間がかかるから駄目よ。」
気が付けば、この日の君のように、私は台所で下を向いたまま、考え込んで、すねたように可愛くぷっくらと頬を膨らませ、両足をジタバタと鳴らしながら、流しの端に両手を置いて、小刻みに揺れていた。でも私はいつも通りに、排水口の漏斗を外して、とろみが付いた栄養食を流しだした。もう。ごめんなさい。
玄関が開いた音。いつもの様子で君を迎えてみる。あ。お疲れさま。あっ、ごめんね。まだ夜ご飯はね、先にお風呂入ってね。と私は言った。子育てを任せてごめんね。顔色悪いけど、大丈夫なの。元気。うん。ね。いつも本当にありがとう。と彼は革靴を脱ぎながら、私を労った。本当ね。ありがとうね。ごめんね。今日は頑張ったのにね。私に。
部屋からまた、まだまだ、またまた聞こえた。あああ。ああ。いつ見ても、君の顔は変わらずに若く瑞々しい肌をしている。パーマをかけた君の髪は、ワックスで整えられている。両目で私を見つめて、他の女に幾度なく口づけをした、そうに違いない、その不倫じみた唇は、小刻みに震えて。自然と荷物を受け取った。
ミソカちゃんが泣いているよ。そうなの。せっかく寝かしたのにね。まただね。起きちゃった。ちょっと、ごめんね、行ってくるね。小走りで子供部屋に向かうと、じゃあ俺がご飯の続きを作るよ。なんて素敵なの。ありがとうね。ごめんね。吊り上がった口角を感じて、戸が開いた君の部屋に入った。
真ん中に布団が敷かれた真っ暗な子供部屋に、君は仰向けになっている。何カ所もしわができた染みの付いたシーツの上に、眼を閉じながら、君は四肢を、私が昨日見た木から落ちた、味噌を吹き出していたセミのように、抜け殻かな、痙攣して動かして、やはり、私が見てあげないと駄目だなって、思わせて。
君の体は六カ月だから、まだまだね。面白くて、車道に置いたら、バカで鈍感なママは、きっと、パパと一緒に買った赤いアメ車で、君を轢いてしまうのだろうって、それで気づかずにママとパパは行き先に向かって、でも這いつくばった君はぺちゃんこのまま、また誰かの車に轢かれてね。
ママのお腹の水で喉に詰まらせて、看護師もいないのに、私の腹を裂いて、外に出してと叫ぶのね。シーツの傍に赤いものを反吐しながら、不規則におっきいな頭をぱきぱきと、出産中に背骨が折れて不随を患いそうなほど曲がって、枕に激しく頭を打ち付けた私のように振って、この部屋の空気を吸おうとしているのね。
あぁ。ママだよ。寂しかったよね。私がママだよ。もうすぐだからね。ママだよ。君を抱き上げるね。すぐにね。今からね。
意識に表れる現実と過去回想の移り変わりを途切れなく書こうとしました。読みやすい作品や言語体系とはどうしても、分節化や明確な違いを示されて我々の眼前に現れる。このリアルと文章の違いが気になり、文章を純粋な意識活動に合わせるのを試みました。
お読みいただき感謝申し上げます。