髪の忠告
会社帰りの道は憂鬱だ。
会社という大きな社会から出て、家庭という小さな社会に戻らなくてはならない。妻も子も私の愛する人に相違ないが、他者と接する事はそれだけで精神を削るものなのだ。
暗いアスファルト。電灯。周囲の家の明かり。
見慣れた世界は心に安らぎを与えてくれる。子の成長は早く、見る間に姿を変えていく。私が家に慣れないのはそれが原因なのかもしれない。いや、単に私が家族の交流を怠っているだけなのかもしれない。隣に住んでいる人も、朝早く夜遅い私にそう言っていた。
こんな益体のない想像も帰路の暇潰しに過ぎない。無意識に続ける歩行は徐々に私を家に近づけている。
目に引っ掛かったカーブミラーのポールが妄想の終わりを教えてくれた。橙色の塗装が引っ掻き傷のように剥がれて金属が露出しているそれは、家路での見慣れた目印だ。
この曲がり道を右に、突き当たりを左に行けば、我が家が見える。ただいまと言って手を洗い、妻の用意してくれた夕食に感謝する。子どもは既に済ませたご飯の感想を教えてくれ、私がそれを確かめては学校はどうだ、とかつてそんな父親にはなるまいと思った文句で聞く。
もはやルーティンとなった帰宅時の行動を思い浮かべて、その思考もまたルーティンとなっている事に嘆息する。
明日は休日だ。
子どもに行ってみたい場所を聞いて行くもよし。家にいるのが好きになった妻にのんびりしてもらうのもよし。三人で何か遊んでみるもよし。お隣さんの言う家族の交流をしてみよう、と思った。
昔に妻と共にプラネタリウムによく行ったのを思い出す。妻は星が好きなのだ。星座占いがきっかけだったらしい。昔は疎かった私にも色々と語ってくれていた。新社会人だった時の懐かしい記憶だ。私もすっかり詳しくなったものだ。子どもが産まれてからも、子が小さい頃は何度も行った思い出深い場所。
そう過去を懐かしむ私は疲れた体を何とか押して、曲がり道を右に曲がる。
不意に視界が明滅した。
途端に背筋が冷え、立ち竦む。
明滅が道を照らす電灯の点滅に起因するものだと、すぐに理解したが、たった一度のそれだけに何か心が動くことはない。
その瞬間、背後に気配を感じたのだ。
後ろから迫ってきたわけでもない。足音も息遣いも聞こえない。気配だけが現れた。それは異常だ。
気のせいではないか、と考える。
シャワーを浴びる時、目を瞑った時、背後を意識した時、この手の幻想を抱く事がある。第六感というのは警戒を促す遺伝的なサインでしかなく、現代において気にかけるものではない。それでも私の正気が振り返るな、と告げている現実も確かなのだ。
後ろを向くべきか逡巡する。日常に滑り込んだ怪奇に目を向けるべきか。それとも僅かな直進と左折の先にある小社会へ飛び込むべきなのか。その答えは平穏無事を好む私にとって明らかに思えた。
しかし少し前の思考が私の足を引っ張った。僅かに眼前の平和が憂鬱に戸惑った。後悔を先に差し挟む余地もなく、刹那に為された思考が電気信号になり、脳の運動野から運動ニューロンを通じて骨格筋組織に伝達される。
そうして私は、首を回し、腰を捻り、足を横にして背後を見た。
何もいない。
しばらくそこを凝視しても、気配はなかった。それはただの錯覚だとも言いたげにアスファルトは電灯とカーブミラーを支え、網膜に映る可視光の像は対象の不在を指し示していた。遅れてきた後悔と軽い失望に大きな溜め息を吐く。
「危ないですよ」
硬直。
弛緩の隙に言葉を刺される。驚愕に体が動かせなかった。二段構えの不意打ちに頭が真っ白になる。
「ここは危ないですよ」
何も答えない私に声は反復した。高く細い女性の声だ、と固まった頭がやっと動いた。視界の端に映っていたそれをようやく認識する。
背の低い女性だった。
年若く髪は長い。ただ髪が長いのではない。日々の手入れを疑う程にあちこちが跳ねていて、白い明かりに艶めく黒髪が地面にまで伸びている。日常生活にはいささか不便そうな髪だった。
次に目を惹いたのは、名状し難い灰色の服と黒髪から覗いている白く瑞々しい肌だった。奇妙な薄墨の服よりも整った顔に目が向く。灰青の上目遣いが私を射止めていて、子供のような幼い表情が重ねた歳月への推量を拒む。
唐突な出現への恐れからか、あるいは唐突な美貌に目を奪われていたからか、私は無言でその女性を注視していた。
彼女は反応のない私に一歩近づき、もう一度口を開いた。
「ここは危ないので迂回した方が良いです」
「なぜ危ないのかな。そして失礼ですがあなたは?」
狼狽えながらも、なんとか返答する事ができた。
動揺している私の目を、女性はじっと見つめていた。じろじろと観察してしまった手前、強く拒絶はできない。しかし心の奥底まで覗かれるような鋭い視線に私は少したじろいだ。
その夜空のような瞳には感情が見えなかったのだ。眼球の中にはただ広大な宇宙が広がっているようだった。
「一度戻って、家には反対側から回り込んだ方がいいですよ」
彼女の口調はまるで私の家を知っているような言い方だった。頭で知り合いを網羅するも、一致する名前も背格好もない。そもそも、これ程に人目を引く人物を忘れたりはしないだろう。第一、こんな住宅街で何が危ないというのだ。
「それだけ」
再度返答に詰まる私をよそに、女性は踵を返した。じゃり、と片方の靴がアスファルトと擦れる音。綺麗な半回転に黒髪がたなびいて、こん、ともう片方の靴が鳴る。
そのまま歩き始めた彼女に訳の分からないまま声を掛ける。
「待ってくれ。意味が分からないんだ。教えてくれ」
私の困惑にに耳を貸さない女性は、突き当たりへ歩を進める。
それを追いかけようとして、彼女の忠告に足を止めた。
奇妙な邂逅を終えても尚、周囲の景色は見知ったものだ。灰色と白線の道、平和な家々、私の知っているいつもの小さな世界。少し進めば妻子に会える。混乱からか多少の憂鬱を塗り替えて、今は無性に妻と子どもに会いたかった。変化を疎んでいても彼らは確かに日常の証だったのだ。
でも足が動かなかった。彼女の言葉に迷っていた。
既知の風景が今や異様な怪物の口にすら見えていた。電灯や他家の灯りが牙で、私が暗闇に呑まれていく幻覚すら脳裏をよぎる。
なぜ危ないのか。
なぜ迂回した方がいいのか。
なぜ私の家を知っているかのような助言をできるのか。
そもそも彼女は誰だ?
引き留めて追及したくもあり、一刻も早く引き返すべきとも思った。幾多の疑問と当惑の間にも、地面に黒髪をつけた彼女は進んでいた。規則的に鳴る靴音はもう突き当たりに行き着こうとしている。
好奇心。それが荒れ狂う感情の錯雑に唯一鎮座していた。知りたい。理解したい。一歩を踏み出したい。その先を見たい。子どものような昂揚もあった。美しい女性に出逢って、まるで物語に選ばれた主人公のよう。
不安に巻き上がる家族との再会への欲求がこれを肯定し、私は自らの意志で決断した。
すなわち警告を無視して女性を追う。
私は恐る恐る右足を出し、左足を出して前方へ移動する。当然の行為、知っている道ですら、今は心臓が張り裂けそうなくらいの緊張を呼び起こす。
呼気が喉を通る感覚がやけに明瞭だった。喉が渇いて堪らない。手足が痺れるような心地がする。それでもしっかりとアスファルトを踏みしめて進んだ。多少出遅れても歩幅の差違は彼女との距離を徐に縮めてく。
小気味良い音を立てて、彼女は角を曲がり終えた。地面に届くあちこちに跳ねる黒髪が、するすると左角へと消えていった。
それとほとんど同時に、私は突き当たりに辿り着いた。そして胸の疼きを静めて、首を左に向ける。その先には。
私の知る我が家があった。
家族で住む私の家。玄関に灯る門灯に表札、郵便受け。一階の窓たちからは温かい光が漏れていて、リビングの掃き出しの窓にかかるカーテンの柄は妻の選んだ星空を模したもの。義母が選んだよく分からない庭木。
それに目を奪われた。
「……あぁ」
心に沁みいる安心感に緊張が解けた。全身の疲労もなくなったような解放感を覚え、口内の唾がどっと溢れて空腹感まで強くなる。頭にあったのは、妻の作ってくれたご飯と話しかけてくれる子の笑顔。好奇心など肴にもならない。
だから私は曲がった先の我が家に面する道に、黒髪の女性の姿がない事をすっかり失念していた。忠告を無視して追いかけた理由も忘れていた。多くの疑問も不安も吹き飛んで、我が家の玄関に吸い寄せられる。
もう身に巣食う恐怖も未知への興味もなかった。日常への帰還が呼ぶ歓喜が私の内を占め、庭木を通り過ぎる。
窓を見ると偶然にも子と目線があった。子は驚いた様子の顔をしていて、どこかへ駆けていく。その光景に幼少の面影を認め、成長した子への寂しさが溶けていく。小さな窓から一瞬覗いた妻に愛おしさが湧いてくる。
一目見るだけで心を癒される私が、彼らと再会すればどれだけ幸せなのだろうか。もうすぐそこにある愛する家族の元へ、また一歩を踏み出した。
「あ」
すると我が家が急に伸びた気がした。踏み出そうと思った足に奇妙な感覚を覚えた。前に進んでいるのにその感触がない。
玄関の門灯が残像を残して上がっていき、屋根が子どもの頃のように天高く見える。
可笑しい、と一笑に伏せない違和感が私を止める事はなかった。足を動かさなくとも、我が家は否、周囲の光景が上に昇っていく。歩けなくとも、私が家に近づいている。
視界からついに我が家が消え、郵便受けと表札がかかる塀が正面に来た時に私は致命的な誤解に思い至った。しかしそれは余りにも遅かった。激情が脳裏に渦巻いたが、私の筋組織は終に動かなかった。
首を動かしてもいないのに顔が空を向く。僅かに視界を掠めた玄関口に妻と子どもの姿が見えた気がする。
最後に眺める星は綺麗だった。
星座占いから知った雄大で恐ろしい宇宙と星の夢。いつの間にか育っていた子どもにまた見たいと言って欲しかったもの。妻と再び語らいたかったプラネタリウム。あの満天には及ばずとも、またみんなで星空を望む夢は図らずしも叶ったのではないだろうか。
幸福と共に意識が解れていく。
もう歩けない。もう見えない。もう聞こえない。もう動けない。もう感じない。
何も分からなくなって、須臾の悟りは黒い髪へと変貌した。
既に消失した私の意識が誰かの声を知覚した。
それも知らぬまま、黒髪の一部になった私は──。
ルビの調子が分からないのですが、十分や不要、過剰といった感想があれば書いてくださると助かります。