47.しょうがないなぁ
振り返ることなく、一心に駆け出す累の後ろ姿に清人は目を眇めた。
彼女の走る後ろ姿を見るのはこれで二度目。前はもう彼女に会えなくなると思い、寂しくなった。けれど、今は違う。累は今後、自分を追ってくるだろう。
ーーそれこそ、僕が捕まるまで。
そう思うと心が弾んだ。高鳴る鼓動に、胸に手を添えて小さく笑ってしまう。
こんなに愚かな感情を自分が持てているということが、不思議だと思うと同時に嬉しい。
人間に生まれたからには、人間を謳歌しよう。
誰からも支配されることのない、真に自由な世界。
人々の心を解放する。
それらのプレゼントを、累ちゃんにあげる。
彼女がどんな反応を返してくれるのか……。その先を考えて、清人は心からの笑みを浮かべた。
「次、見つけないとねーー」
あのオモチャはもう使えない。
今度は、そうだな、子供にしようかーー。
次の目星をつけながら、清人は笑みを深めた。
夏の澄み渡る空を眺める。
彼女とのゲームは始まったばかり。
「またね、累ちゃん」
ザァ、と木々の葉が落ちて舞う。
小さく微笑んで、清人はその場から姿を消した。
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椿は座り込んだまま、地面を見つめていた。
涙の跡で地面に染みができている。先ほどまで止めどなく溢れていた涙は枯れ果てた。動くことも、腕を上げることですら億劫で、ただただ地面を見つめる。
寂れて黒ずんだ灰色の地面に、桜の顔が浮かんだ。
『お母さん!』
微笑みを浮かべる桜。
『もーお母さんってば!』
頬を膨らませて怒る桜。
『行ってきます!』
溢れんばかりの笑顔で、手を振り遠ざかる桜。
最後の日に見た、桜の姿。
「待って……」
遠ざかる娘の姿に、椿は地面に縋るように俯く。
枯れたと思っていた瞳から、また涙が溢れ、地面にこぼれる。
娘が帰ってきたと、思った。
それがなければ立ち直れてなどいなかった。
道言さんの言葉に、確かに自分は救われていた。
はっきりとした頭で、本当にもう娘はこの世に居ないのだということを認識する。
そして、自分のしたことに思い至った。
「私は、なんてことをしてしまったんだろう。
……ねぇ、桜」
返事のない空間に声をかける。
今までは聞こえていた桜の声も、もう聞こえない。
本当に、自分にはもうなにもないのだ。
ストンとその事実が腑に落ちた。
先ほど累達に向けた花鋏が地面に転がっている。視界に入ったそれに導かれるように、ゆるゆると立ち上がり、近くまで足を進める。
なにげなく、それを手にとった。
きらめく刃が、光のように感じた。
はたから見た自分の姿を想像して笑ってしまう。
(こんな姿を桜が見たら、きっと眉を吊り上げて怒るわね。
お母さんなにをしているの、ってーー)
力無い笑みを浮かべた椿は、一度上を仰いだ。
倉庫内の暗がりが広がるばかりで、空を見ることは叶わなかった。
それでも、娘と二人で過ごした日々をそこに見る。
強がってはいたけど、あの子は寂しがりやだった。
それは誰に似たのか。
上を向いたまま、花鋏を持つ手に力を込める。
大丈夫。
お母さんも一緒よーー。
「―――っっ!!!」
椿は一気に鋏を自分の胸部に突き刺した。
体から力が抜け、立っていられなくなる。バランスを失った身体が、崩れるように地面に横たわる。頬に当たる土の冷たさも、心を亡くした今ではなにも感じない。
そのまま目を閉じようとした瞬間ーー。
涙で濡れた瞳に、桜の姿が映った。
「さ、くら……」
大きく目を見開く椿に、桜はやれやれとため息をついた。
『本当に、しょうがないなぁ。
……けど、あたしのせいだよね。お母さん、ごめんね』
不意に現れた桜の姿に、目を瞬かせる。それから、クシャと顔を歪め、目を逸らした。人を殺してしまった自分は、娘と合わせる顔がない。
しかし、椿の予想に反して、桜が怒る様子はなかった。
悲しげに笑った後、桜は手を差し伸べた。
『大丈夫だよ。あたしもお母さんと一緒に行くから。
だから!お母さんは大丈夫だよ』
「桜、なのーー?」
『うん。
――お母さん、ただいま!』
花が咲いたように笑う桜に、椿の頬に一筋の涙が伝った。
(やっと、会えたーー)
椿は差し出されたまだ幼い手を握る。
「お帰り、なさい……」
椿は笑みを浮かべた。
手を伸ばした椿の手が地面に落ちる。
それを最後に、椿はこと切れた。