32.お母さん?
「うん。ーーやっぱり累はいい子だ」
沈黙を肯定と受け取った國枝が満足気に頷く。
優しく首を撫でられ、背筋が泡立った。
私が抵抗すれば、木下さんが殺されるーー。
その言葉が呪縛となって、累の身体の自由を奪う。
もう誰一人、死んでほしくないのだ。
顔が再び近づき、國枝の髪が頬にかかる。香水の、サンダルウッドの香りがした。
恍惚とした表情を浮かべる國枝に尋ねる。
「……一つ、聞かせてください」
「なんだーー?」
問いかける累に國枝が首を捻る。どうしてこのタイミングで、と思ったに違いない。
「どうして、加藤次長だけじゃなく、他の少女達を殺したの?」
「?俺は加藤次長を殺っただけだ。他の事件は知らない」
「え?
……でも次長の遺体の様子はーー」
「俺はやり方を真似させてもらっただけ。他の被害者とはなんの面識もない。
……ってそんなことは、今どうでもいい」
興味のない内容に、國枝が眉間にしわを寄せる。
「余計なことは考えるな。
俺だけを見ろ、累ーー」
横たわる累の身体のラインをなぞるように、國枝の手が這った。
「―――っっ」
その手の感触に悲鳴をあげそうになる。
「ふふっ、可愛い」
恐怖に顔を歪める累とは対照的に、その反応が気に入ったのか國枝は笑みを深めた。
吐息が累の耳元をかすめる。
「大丈夫、怖くない。
痛いことなんて、何一つない。俺は累のヒーローなんだから、ね」
「―――!!」
これから何をされるのか、國枝に対する恐怖と嫌悪感に声にならない悲鳴をあげる。
拘束された手を動かしてもやはりビクともしない。のし掛かる國枝の重さに累は目をつむった。
ーーガンっ。
「――ぐあっっ!!」
身体の上から鈍い音とうめき声が聞こえた。次いで、大きなものが横に倒れる音がして、累の上にあった重みが消える。
「――?」
累は閉じていた目を恐る恐る開ける。
國枝が累の横で伸びていた。頭からかすかに血が滲み、その横に血のついた木材が落ちていた。突然のことに何が起こったのかわからず、目が点になる。
「いったい、なにが……。
――!?」
累のつぶやきと同じタイミングで、何かやわらかな感触に体当たりするように抱きつかれる。
芳しい花の香りがしたーー。
「大丈夫!?」
「……あなたはーー。椿、さん?」
椿さんは春香の、いけばな教室の先生だ。
先日お邪魔させてもらったばかりなので、まだ記憶に新しい。
しかし、どうして椿さんがこんなところにーー。
「もう大丈夫だからね!!」
「……」
自分を抱きしめる暖かい腕に、涙が溢れそうになる。
優しい声が累を包む。
「怖かったねぇ。よしよし。
もう大丈夫、ワタシが守ってあげるから」
「ありがとう、ございます……」
きつく抱きしめる腕に、息苦しさを感じながらも、その体温に安堵する。
「お礼なんていらないわ。娘を守るのは当たり前なんだからーー」
「――??
あの、椿さん……」
「怖かったね、これからはお母さんがしっかり守ってあげるから」
椿の発する言葉に首をかしげる。
冗談じゃ、ないよね……?
冗談を口にするような声のトーンではなかった。
なにか、おかしいーー。
「なんの心配もいらないわ」
彼女の腕に抱きすくめられながらも、違和感が大きくなる。妙な焦燥感に襲われる。
先ほど彼女はなんと言ったーー?
『娘を守るのは当たり前なんだからーー。
これからはお母さんがしっかり守ってあげるから』
お母、さんーー?
椿はもちろん累の母などではない。
累の育ての母は、数年前にすでに亡くなっている。
椿の言った発言の意味がわからず、混乱している累の頭を椿が優しく撫でる。
「怖くない、怖くない……。
そうだ!あなたの好きだったキラキラ星のお歌でも歌いましょうか。小さな頃よく歌ってとせがんでいたじゃない!」
累を置き去りにして、椿は楽しげに話を進める。
累の中の嫌な予感がより一層大きなものとなる。
「ーー椿さん、なにを言っているんですか?
…………どなたかと、勘違いされてます?」
「?なにを、おかしな事を言うわね。
あなたはさくらじゃない。ワタシの娘」
「――?
私は糸川累です。先日、春香と一緒にお邪魔させていただいた……」
椿の虚ろな瞳が今初めて累を捉えた。
一瞬正気の色がちらつく。
「あ、れ?
糸川さんーー?」
「……そうです」
変な感じだ。これではまるで……。
先ほどの國枝の奇妙な言動とかぶる。
異常なまでの、認識の食い違いが起きている。この現象は、いったいーー?