31.悪魔
ギラついた目をこちらに向け、國枝が歩み寄ってくる。
「――っっ!!」
その目が怖くて逃げようともがくが、縛られた手が痛むばかりで動けない。
「無駄だ。固めに縛ってあるからね、逃げられないだろう?」
精一杯縄を解こうと手を広げる累を嘲笑う。
顔のすぐ横に國枝の革靴が見えた。芋虫のように転がる累を見て、國枝が笑う。
「無様な姿だな。でも大丈夫。
それでも、俺は累のこと可愛いと思うよ」
國枝はしゃがんで、暴れて乱れた累の横髪を優しく梳く。彼の手が自分の体に触れて、全身に鳥肌が立った。
先ほどまで彩芽を殺そうとした、加藤を殺した手が、優しく自分に触れるギャップに酔いそうになる。
その嫌悪感のまま、累は顔を大きく背けることで、國枝の手を振り払う。
國枝の顔が歪み、彼は大きく手を振り上げた。
「なんだその態度は!!」
「―――っっ!!!」
次の瞬間頬に走った衝撃に、累は大きく目を見開いた。
頬を叩かれたーー?
「――っ」
その現実に、想像よりも何倍もショックを受けている自分がいた。頬の痛みよりも、叩かれたという衝撃に、涙が溢れる。
こんな奴の前で泣きたくなんか、ないのにーー。
涙をこぼす累に、國枝は表情を緩めた。
「ああ、ごめんな。
そんな泣かないでくれ。俺はただ、累にわかって欲しかっただけなんだ」
先ほど累をぶった同じ手とは思えないくらい優しい手つきで、國枝が肩を撫でる。
「わかってくれ。俺はただ、累のことが好きなだけなんだ……」
「――っ」
肩を抱き寄せられる。縛られ身動きができない累は、國枝の腕の中にすっぽりと収まる形になった。恐怖で身体が震える。優しい声に吐き気がした。冷や汗が流れ、鳥肌がすごい。しかし、先ほど叩かれた衝撃によって、抵抗することができない。
そんな累の様子を、肯定だと受け取ったのか、國枝が笑顔になる。
「そうか、わかってくれるんだな。
――嬉しいよ」
「――!?」
國枝の顔が近づき、唇に温かな感触が触れた。
――口付け、された。
全身に鳥肌がたった。
先ほどまでとは比べられないほどの嫌悪感が全身を駆け抜ける。
ストーカーが、加藤次長を殺した犯人が、彩芽を誘拐した人が、自分にキスをしている。
――い、や。嫌!!!!
「――っ」
國枝が顔を離す。口元からは小さな血が流れていた。
親指で血を拭う。自嘲するように、彼は再び顔を歪めた。
「……まさか噛まれるとは思わなかった。
累は意外とお転婆だったんだな」
思わず口ごちた國枝が、瞬間体当たりをするように累を押し倒す。
「――!?」
勢いよく倒されたせいで、倉庫の硬い地面に背中を強打する。
累はその痛みに顔を歪めた。痛がる累を見て、嗜虐心を刺激されたのか、國枝が嗤う。
「まだ自分の立場がわかっていなかったんだな。
そうか、累はバカだったもんな」
馬乗りになった状態の國枝が、累を見下して鼻を鳴らす。
耳元まで顔を寄せると、冷淡な感情のこもらない声で囁きかけた。
「………累が俺を否定すれば、あいつは死ぬぞ」
「――……」
彼が首を巡らす方を辿る。
國枝の視線の先には、木下彩芽がいた。
人の命を盾に、悪魔が交渉をしてくる。
累の身体は強張り、動けなくなった。
「自分のせいで人が死ぬのは嫌だろう?」
悪魔は累の一番弱い部分を刺激する。
横を向く累の頬を涙が滑り落ちた。
「俺のことを否定しなければ、奴は殺さない。
累が俺を好きになれば、すべてが丸く収まるんだ」
不気味な微笑みを浮かべながら、國枝が囁く。
國枝の息がまぶたにかかり、累の睫毛が震えた。
縛られて動けない累を、力で屈服させることもできるのに、國枝はそれをしない。
あくまでも累が受け入れるのを待っている。そちらの方がよほど累が傷つくのを、わかっているのだ。




