29.大罪と罰
「――――っ」
気持ち悪い汗の感覚で目を覚ます。
先程まで見ていた、夢の余韻が残っていた。
寝ぼけ眼の白く濁った世界を、瞬きを繰り返すことでクリアにする。
冷たくカビ臭い匂いと、砂利が頬に当たる感触でここがどこだか思い出した。
(そういえば私、木下さんを助けようとして……。
誰かに襲われて気絶してた?
ーー木下さんは?)
気絶してからどれくらいの時間が経ったのだろうか。小窓から覗く外灯りはいまだ月だけで、街は寝静まり返ったままだった。痺れが残る体を動かそうとして、自由がきかないことに気がつく。どうやら両手首を後ろで縛られているようだ。
唯一自由に動く首を使って、周囲を見渡す。
(木下さん、良かったーー)
椅子に縛られたままではあったが、ひとまず姿を確認できたことに安堵の息がもれる。
しかしその一瞬後、突然彩芽は気が触れたかのように大きく首を振り出した。その振動が、横たわる累にまで地面を通して伝わった。
「――?」
様子がおかしいことに気づいた累は、目をこらして暗い倉庫内を見通す。キャンプ用の小型ランタンがある程度の、かすかな灯りの中で彩芽の様子を伺う。
(泣いてるーー?)
少し離れた場所にいた彩芽は両の目から大粒の涙をこぼし、全身をガタガタと震わせて一点を見つめていた。恐怖で鳴る歯はそのままに、隙間から自然と溢れる唾液すら気にする余裕などなく、クリクリの自慢の大きな目を最大限まで見開いている。彼女は目を離すことができないでいた。自分の身を脅かす者がいる、前方からーー。
累も軋む首を動かし、彩芽の視線の先を追う。
そこにいるのは誰かーー。一連の事件の犯人は、誰なのかーー。
命の危険を感じるなか、焦燥感にかられる自分と、妙に冷静な自分がいた。身体からはアドレナリンが溢れ、心臓は痛いほど鳴いているのに、頭だけが冷静で、状況を把握しようと目に入る物、匂い、聞こえる音、触れるもの、全ての情報を脳に焼き付けようとする。
「ーーあ」
神経が過敏になっているからだろう、普段は気にならない服の擦れる音が今日は一際大きく聞こえる。
奥から現れる影があった。
その人影を見た瞬間に、(アドレナリンのお陰で高速に回る)脳の回路がつながったーー。一人の人物の姿を脳が鮮明に映し出す。暗がりから、その人は靴を鳴らして進み出た。
「………どうして」
國枝元基は、いつもと変わらぬその爽やかな笑顔を浮かべていた。
いつもはホッとするのに、今は変わらぬその笑顔がただただ怖い。
「累がこんなところに来るとは思わなかったなー。
けれど、会えて嬉しいよ」
今までは糸川さんと呼んでいた國枝が、急に累と呼び捨てで下の名前を口にする。その声はいつもとは違い、熱に浮かされているようだった。
國枝が一歩近づき累に話しかける。累は後退ろうとして失敗した。両手を後ろで括られており、思うように体を動かすことができないのだ。
困惑の気持ちが消えぬまま、目の前の人物を見据える。
「……國枝さん、だったの?
私の家に指輪と手紙を入れたのも、後を尾けていたのも、華になった少女たち事件を起こしたのもーー」
「ああ、あの指輪は奮発して買ったんだ。累に似合うと思って。二人にとっての記念にね。会社では累が恥ずかしがるだろうと思ってしていなかったんだけど。――どうかな?」
あの指輪と同じデザインのそれは國枝の薬指にはめられ、妖しげに鈍く光っていた。
どうしようもない気持ち悪さに襲われる。國枝さんのことは会社のことを相談するくらいには、心を許していたのにーー。
心を許した相手がストーカーだったことの衝撃が大きい。
「どうして……」
「……どうして?君も言ったじゃないか、俺のことを愛しているって」
「……私、そんなこと言ってないーー」
「なにを言っているんだ?
君はたしかに言ったんだ。俺だけを愛しているってーー」
頭が混乱する。累は一度たりとも國枝に愛しているなどと言ったことはない。國枝はなにを言っているのかーー。國枝自身も累の反応が予想外なのか、ふらりとよろつく。彩芽のそばで立ち止まる國枝を見て、その横で体を震わせている彩芽に意識がいった。
『華になった少女たち事件』を起こしていた國枝さんが、木下さんを誘拐してここに連れてきた、ということはーー。
加藤次長の遺体が脳内でフラッシュバックする。
冷や汗が頬を伝った。勘違いであればいいが、もしもそれが目的なのだとしたら。
止めないとーー。
彩芽から気を逸らそうと、言葉を投げかける。
それは累自身も気になったことだ。
「どうして、次長にあんなことーー」
「奴は累にひどいことをした。累も辛いと相談してくれたろう?
奴はその罰を受けただけだ」
当たり前のように口にする國枝になにも言えなくなる。
たしかに次長から嫌がらせは受けたが、それほどの罰が必要だとは思えない。
「殺されるようなことじゃ……」
「やっぱり累は優しいなー。さすが俺の累だ。
けれどねーー」
爽やかな笑顔が鳴りを潜め、その代わりに形容し難い怒りの表情を浮かべた國枝が言う。
「ああいうのは増殖すると他までダメにしてしまう。だから摘み取るしかない。
――加藤は累の心を傷つけた。それは万死に値することだ」
國枝は視線を戻しまた一歩、彩芽に近づく。今度こそ、彼は彩芽を視界に捉えた。
「もっとも、罰を受けるべきは、加藤だけじゃないーー」
「……く、國枝さーー」
震える声で小さく彼の名前を彩芽が呼ぶ。
「薄汚れた分際で俺の名を呼ぶな!!!」
「――っっ」
両の目を真っ赤に腫らし、小刻みに震えながら國枝の名を呼ぶ彩芽を一喝する。その声は大きく響き、倉庫内を揺らした。
「お前も俺の累を苦しめ悲しませた。その代償は重い」
そう言って、國枝は脇に置いてあった何かを取り出す。
それを見た彩芽の震えがより一層大きなものになった。ガタガタと歯が鳴り、上下が噛み合わない。
それもそのはずだ、國枝が手にしていたものはーー。
「まさかーー」
大きな、ノコギリの刃が鈍い光を放っていた。