20.立場の自覚
一瞬何のことか考えてから、先程彩芽が言っていた次長に目をつけられ、日々責められていたことだと理解する。
鋭い武蔵の視線に怯む。
累にとってはデリケートなことだったので話すのも勇気がいるのだが、目の前の刑事はどうにも待ってくれそうもない。
累は小さく頷いた。
「た、確かに。よく怒られてはいました」
「――………」
「けど、私はなにも知りません!本当です!!」
累の叫ぶ声が、応接室内に虚しく響き渡る。来客用の室内は豪奢な調度品が置かれ、ソファも高品質で柔らかい。
それなのに、今の累は体にフィットし沈むソファーに、自分の心まで沈んでいきそうな気がした。
「容疑者はみんな言うんですよ、そのセリフ」
累の叫びも虚しく、武蔵はなおも鋭い視線のまま、前屈みになって累を見る。獲物を狩るような視線に、累は震えた。
後ろに撫で付けられた前髪が、タテガミのように揺れる。
(私は本当になにも知らない。
――どうしたら、信じてくれるの?)
「昨日の夜は、どちらにいらっしゃいましたか?」
武蔵が累に訊く。
小さな黒い手帳を開いて、ペンを握り天沢もこちらを見据えていた。
疑われているのがわかる。しかし、逆にここでしっかり答えられれば疑いが晴れるかもしれない、累は昨日の退勤後のことを思い出していた。
「昨日は仕事が終わった後、先輩の國枝さんと夕食をご一緒しました」
「國枝さん、というのは?」
「――ええと、営業部の國枝元基さんですね。部署のホープなのだとか」
武蔵の問いに、隣で資料をめくる天沢が答える。
武蔵が怪訝そうに首をかしげた。
「あなたとは部署が違うようですが、交流があったのですか?」
確かに、累と國枝は部署が異なる。國枝は営業部だが、累は開発部の事務面をサポートしていた。
ただ、中小企業ということもあり、他部署でも同じオフィス内にあるため、交流が全くないわけではなかった。
それに、國枝さんは放っておけない性格だから。
「……國枝さんは優しい人で、困っている人がいると部署関係なく声をかけて下さる方なんです。だから、昨日も心配して、食事に誘ってくれたんです」
累の話には天沢が頷く。
武蔵はなおも質問を繰り返した。
「――食事を終えられたのは何時頃でしょうか?」
「ええと……。たしか、20時頃だったと思います」
記憶を頼りにおおよその時間を答える。お会計の前にお手洗いに席を立った際は、確かそれくらいの時間だったはずだ。
「それからは、なにを?」
「國枝さんと別れてからは……」
人通りのない歩道。赤信号と迫るトラック。手から滑り落ち、散らばり潰れたミックスナッツ。
連想ゲームのように、背中を押されたその時のことが思い出される。恐怖の感情も共に思い出して、声が出なくなる。しかし、原因は恐怖だけではなくてーー。
(道言さんーー)
彼にまで迷惑がかかってしまうのではないか、と思った。あの時のことを話せば、道言さんのことも話すことになる。トラックに轢かれそうになったところを助けてくれたのに、赤の他人の私の話を静かに聴いてくれた人なのに、そんな相手に迷惑になるようなことはしたくなかった。
「…………」
「糸川さん?」
天沢の声が妙に遠く聞こえる。
「なにか、知っているんですか?」
疑いを込めた武蔵の口調が強くなる。
累は慌ててその質問には否定した。
「違う!違うんです。なにも私は知りません」
強く否定すればするほど、怪しまれる。
「しっかりと説明をしてくだされば大丈夫ですのでーー」
「…………」
天沢が武蔵をなだめて、訊いてくれる問いにも答えられずにいると、
武蔵が大きくため息をついた。
「糸川さん、あなたが正直に話さないと鬼原の立場も悪くなりますよ」
「ーーえ?
どういうこと、ですか?」
「犯罪者を庇いだてするようなことがあれば、あなただって犯人隠避罪として捕まるかもしれません。そうなれば、現職刑事の鬼原はどうなるか、わかりますよね?」
「ーーっっ」
「ちょ、武蔵さん、そんな言い方!」
天沢の止める声にも武蔵は小蝿を追い払うように手を払うだけで、追求はやめない。
「正直に、全て話してください。
そうすれば、あなたへの疑いも、鬼原の立場が危うくなることもなくなるんですから」
武蔵の有無を言わせないもの言いに俯く。
話す、以外の選択肢はなかったーー。
「……あの時」
累は重い口を開いた。