13.発作と罠
暗闇の中で光を求めるように手を動かす。
あの子をつくっているときだけは、心が満たされていた。
「ぁぁぁぁぁぁぁあああああ。
――まって、まって、待って」
唐突に訪れる喪失感。
遠ざかる姿に声を上げる。
慟哭にも近いその声を夜の暗闇が吸い込んだ。
「――あっ」
糸が切れたように、頭が垂れる。
次に顔を上げた時には、その目から先ほどまでの悲壮感や焦燥は消えていた。
首を傾げ、再びその濁った眼を吸い込まれそうな空へと向ける。
「――きらきら光る、お空の星よ。まばたきしては、みんな、を、見てる。
……見ている?」
歌を、唄う。
あの子が好きだった歌。
「――そうだ、迎えに行かないと」
濁った眼でも、愛しい人の姿だけは今も変わらず揺らめいていた。
星が瞬く夜空に向けて両手を伸ばす。ぎゅっと拳を握る。
手を開いても、そこにあるのは夜の暗闇だけだった。
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翌日、やや重い気持ちを引きずったまま会社へ出勤する。
椿さんのところでほっこりしたのも束の間、後をつけられた。喜んでいるところに水をかけられた気分だ。
だが、日常は今日も変わりない。
仕事しないと、生活できないし。鬼原さんへの支払いだってあるんだからーー。
ロッカーに自分の荷物を詰め、部署までの廊下を歩く。その足取りは重い。
昨日のあれはなんだったのだろう。ストーカー被害にはあっていたが、あれだけすぐそばに気配を感じることは今までなかった。
「ーーあ」
廊下の先に木下さんの友人の姿を見つける。思わずため息が漏れた。
最近はプライベートで色々ありすぎて忘れていたが、会社にも気が沈む原因があるのだった。
同僚の一人がオフィスから歩いてきたので頭を下げる。
「おはようございます」
「…………」
「……――?」
なにも見なかったかのように立ち去る同僚を、累は呆然と見た。
声、小さかったのかな?
小首を傾げて部屋へと急ぐ。
オフィス内がざわめいている。不思議に思いながら、累は自分の席へと向かった。
「おはようございます」
「―――――」
累が挨拶をした途端、あたりが急に静まりかえる。
やっぱりおかしい、そう思ったときには次長の怒る声がオフィスに響いた。
「糸川!!
なにをやってくれたんだ!」
「――っ」
怒鳴る声に身が竦んだ。怒りの感情は強く、それこそダイレクトに累の中に入ってくる。注意や叱るなら大丈夫だが、怒りの感情はダメだった。他者が怒られているときでさえキツイのに……。瞬時に頭が真っ白になる。それでも理由を聞かなければと、なんとか疑問の声を出す。
「なんのこと、でしょうか?」
「お前に作成してもらった資料だよ!肝心の相手先への提案の部分が抜けていたぞ!!」
「――え、そんなはずは」
「確認してみろ!」
次長がデスクに放った資料を確認する。ページを捲る。
「あれ、ないーー??」
確かに作成したはずの資料の一部がなくなっていた。今回は大口の取引先だと聞いていたので、作成した案件資料は何度も確認した。
最終チェックだって、木下さんにお願いしてーー。
頭の中に浮かぶ可能性に首を振る。
いくらなんでも、こんなことーー。仕事に私情を持ち込むことはしないはずだ、そう思って次長の方を向くと、次長の肩越しに彩芽の姿が見えた。
「――っ」
右側の口角だけを上げて、笑みを浮かべる彩芽の姿を見て、愕然とする。
そうだ、初めから気づくべきだった。新人の自分にこんな大きな仕事が来ること自体がおかしいのだ。最終チェックは他の社員がするからと安心していたが、そうではなかった。
なんとか次長に説明しようと口を開く。
「私は確かに作成しました。最終チェックは木下さんにお願いを……」
「――ひどいっ。アタシがわざわざ資料の一部を抜いたとでもいうの!?これだけ今まで会社に入ってきたあなたの面倒を見てきたのに!!その結果が、これだなんて……」
累の言葉をさらうように、彩芽が可愛らしい声を張り上げた。よく通る高い声に、周囲の視線が彩芽に集中する。
顔を覆って下を向いた彩芽の姿に、他の人からの同情の視線が集まった。
『あーあ、泣かせちゃったよ』
『木下さん、かわいそう。糸川さん自分のミスを他人のせいにするだなんて、そんな人だとは思わなかった』
『素直に謝ればいいのに』
周囲から入ってきた感情に愕然とする。
誰も私のことを信じていない。
そっか、ここに私の味方はいないのかーー。
その事実がストンと胸に落ちてきた。
「糸川!いつまでも学生気分でいるな!!
自分の失敗を他人の、それも恩のある木下のせいにするなんて、社会人の前に人間として失格だぞ!!!」
「――っ」
「木下は優秀なんだ、そんなミスをするわけないだろうが。大体な、お前のような愛嬌のないやつの面倒を、木下は買って出てくれたんだぞ。それをーー」
くどくどと次長の言葉が続く。
愛嬌があって、なんでもソツなくこなす彩芽は、次長のお気に入りだった。一方累は不器用で、他人の感情を察するその特性から、人と距離を置いてしまうところがあった。愛嬌がある、とは言えない累と、お気に入りの彩芽とではそれは扱いも違ってくるわけでーー。その彩芽が累に攻撃されたと思い、余計に怒りに拍車がかかったようだった。
俯いて唇を噛む。どうして自分がそこまで言われないといけないのか、そう考えると涙が溢れそうになる。
けど、泣かないーー。この人達の前で泣きたくない。
感情の濁流に、心臓が軋む。動悸が耳元で聞こえる。
泣いてしまわないように、唇を噛み締めると、鉄の味が口の中に広がった。
私はなにも感じない、感じない、感じないーー。悲しくなんて、ない。
心の中でつぶやく。感情が動かないように。
そうでもしないと、決壊してしまいそうだったから。
累はしばらく、次長の怒りが収まるのを、嵐が去るのを、身を固めてやり過ごした。