第73話:考えた気持ちと心の声(後編)
「お待たせ、高木くん!」
生徒会室で悶々としていた俺に、その声は突然響いた。
「い、一ノ瀬!? どうやって入ってきた? 鈴の音は聞こえなかったぞ!」
心臓に悪い。少し待ってくれ、今、頭の中がごちゃごちゃなんだ。
「ゆっくり扉を開けて、鈴を手で押さえれば鳴らないんだよ」
「なぜ、そんな手の込んだことをする?」
あいかわらず、行動の理由が分からない。
「えへへ、ちょっと驚かせようと思って。何か考え事してた?」
「あ、ああ……」
いつもの無邪気な笑顔だ。可愛いな、即座にそう思った。
まるで逆らえない自分が悔しい。
さっきまで考えていたことが吹き飛びそうになっている。
考えと裏腹に、心が嬉しいと訴えていた。
「生徒会室、寒いねえ……。もう高木くんしか居ないの?」
「ああ、うん、そうだよ。さっきまで奈津季さんがいたけど」
一ノ瀬は身体を両手で擦りながら近寄って来た。
距離が縮まるほど、思考よりも感情が強くなる。
「えー! 何で先に帰しちゃうのさ。一緒に帰れば良かったのに」
「それなんだけどな……」
さっきまでの話をするべきか、しても良いのか、考えた。
でも、一ノ瀬に話をせずに先に進むなんてあり得ない。
「奈津季さんに告白されたんだ」
「えっ!? そうなんだ……」
一ノ瀬は一瞬、驚いただけだった。
「そっか、それで高木くん、ちょっと変なんだね」
取り乱した様子もない。至って冷静な、いつもの彼女だ。
「お前、もしかして知ってたのか?」
「うん、何となく、そうなんじゃないかなって思ってた」
やはり、一ノ瀬はちゃんと考えているんだな。
「それで、高木くんはどうするの?」
「どうするって……」
一ノ瀬の表情からは何も読み取れない。
寂しいとか、思わないのか?
お前が少しでもそう思ってくれるのなら、俺は……。
「いいんだよ、私は別に。相手はなっちゃんだし、仕方ないって思う」
一ノ瀬はあっさりとそう答えた。
このところ、少しは俺のことを大事に思っているのかなって感じてたけど。
やっぱり勘違いか。そうだよな、お前は別に、俺が居なくなっても……。
そうやって平気で居られるんだ。
だから俺は、奈津季さんと付き合うべきだろう。
そう思い至った瞬間に胸の奥が張り裂けそうになった。
涙が溢れて止まらなくなる。これは……駄目なヤツだ。
我慢なんて、できそうにない。
何でこんなに……思い通りにならないんだろう。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。俺は今、何を考えているんだろう。
何を思って、何を感じているんだ。何もわからなくなりそうだった。
「ごめん、高木くん、そういう意味じゃないの!」
その瞬間、全身を暖かいものが覆う。
これは……抱きしめられている?
甘くて、優しい香りがした。一ノ瀬の匂いだ。
「私だって、嫌だよ。高木くんが居なくなったら嫌だ」
一ノ瀬は目一杯の力で抱き着いていた。
「でも、なっちゃんに嫌な思いして欲しくないんだもん。
だから……高木くんがそうしたいならって思って。
でも、ごめんね。だから、お願い。そんな顔しないでよ」
慌てたように話す一ノ瀬の声が耳元で聴こえる。
俺は一ノ瀬のことを忘れたい。そして、好きじゃなくなりたい。
そうすれば……、誰も傷つかずに済む。
自分を責めたり、苦しんだりしなくて済むんだ。
だから、奈津季さんと付き合って、一ノ瀬のことを忘れる。
そういう結論になったはずなのに……。
「俺は、お前の事が好きだ」
心が勝手に言葉を紡いだ。
その言葉に反応して、一ノ瀬の締め付けが強くなる。
本当に力いっぱいだ。身体の温もりが伝わってきた。
死ぬほど寒い生徒会室が、暖かくなった。
ごちゃごちゃしていた頭の中が、シンプルになる。
胸の奥の感情はたったひとつになっていた。
「一ノ瀬。これさ……、お前のことしか考えられなくなっちゃうんだけど?」
「いいよ、高木くん。それでいいんだよ」
一ノ瀬は優しい声でそう言った。
「だから、私のことだけ、考えて」
耳元で、心地よい声が響く。
その瞬間、世界が壊れるような錯覚を覚えた。
地面が割れて、粉々になって一緒に落ちていく。
そして、心の奥で何かが姿を現した。
ずっと狭い箱の中に閉じ込めて、見ないようにしてきた想い。
これはもう、呪いだ。醜く歪んだ、怨念のような願い。
とても人に向けていい感情じゃない。
何かがズタズタに引き裂かれて、貼り付けにされている。
突き刺さっている杭は自ら打ち込んだものだ。
絶対に解放してはいけない。
こんなものを受け止めてくれる存在なんか、この世界に無いんだ。
引き裂いても滅ぼせないのであれば、封じ込める以外にないだろう。
……でも、一ノ瀬は「いいよ」って言ってくれた。
だから俺は、無数に打ちつけられている杭の1本を引き抜く。
分っている、ほんの少しだけだ。許していいのは全部じゃない。
「んっ!」
俺は一ノ瀬を抱きしめた。力加減は覚えているつもりだった。
「大丈夫? 苦しくないか?」
一ノ瀬が漏らした声に少し不安を感じて少しだけ力を緩める。
「高木くん……?」
「ごめんな、一ノ瀬……」
強く抱きしめたせいでさらに身体が密着する。
逆に、一ノ瀬は力を緩めて俺の背中を撫でてくれた。
「謝らないで」
優しい声だった。背中に回された手が俺の頭を撫でる。
「愛してる。俺はお前のこと、そう思っているんだ」
心の声が溢れだして、止まらない。
「本当は、お前のことだけをずっと好きでいたい」
「うん、いいよ、ずっと好きでいて」
理性を通さないむき出しの想いを、一ノ瀬は受け止めてくれた。
「お前のことを忘れたくない!」
「うん、私のこと、忘れないで」
俺の心は、悲鳴を上げているようだった。
俺自身は未だに肯定できない想いを、一ノ瀬が肯定する。
「好きだよ、一ノ瀬。お前の事が好きなんだ……」
「ありがとう、高木くん。嬉しいよ」
一ノ瀬の声はひたすらに優しい。
それからしばらくの間、俺は一ノ瀬を抱きしめていた。
今日は殊更に寒い日だ。窓の外は今でも雪が降っているだろう。
けど、とても暖かい。
一ノ瀬は黙って俺の背中を撫でてくれる。
やり直しの世界で過ごした日々は俺を確実に癒してくれた。
凍てついた世界は姿を変えている。
乾ききっていた胸の奥は暖かいもので満たされていた。
それでも涙が止まらない。
この胸の奥にある本当の気持ちは、もう偽れないよ。
俺はただ、自分の中にあるこの想いを肯定したかっただけだ。
一ノ瀬のことを、好きでいても良い、と。
ただ、それだけを許して欲しかった――。
「ごめん、高木くん、ちょっと……」
一ノ瀬がそう言ったので慌てて力を緩めた。
「あの、ごめんね、ちょっとだけ待ってて!」
そう言って一ノ瀬は生徒会室を出て行った。
少し、やりすぎてしまったかもしれない。
冷たい部屋の空気が冷静さを取り戻してくれる。
涙を流し過ぎて鼻水が溜まっていた。全く、恰好がつかないな。
ちり紙で鼻をかんで、帰り支度をする。
一ノ瀬が一度、距離を取ったのはこういうことだろう。
そろそろ、冷静になりなさい、と。
いつまでもああしているわけにはいかないからな。
何かきっかけが必要だ。
きつく抱きしめたせいで、身体から一ノ瀬の匂いがした。
何だか、申し訳ないことをしてしまったな。
俺はいつもアイツに慰めてもらっている。
どうすれば、あの優しさにお返し出来るのだろうか。
それにはきっと、一ノ瀬が俺を好きになってくれるしかない。
結局、何も出来ない。悔しいな。こんなに優しさを貰っているのに。
――バタン!
鈴の音を打ち消すような大きな音とともに一ノ瀬が帰ってきた。
何故か息を切らせている。お前、何をやっていたんだ?
「はい、お待たせ!」
そう言って両腕を開く。
「ん? どうした?」
「さっきの続き!」
そう言われて、一気に頭の中が熱くなる。
ああ、俺はお前のそんなところ、本当に好きだよ。
もう一度抱きしめたら、俺はたぶん……。
「ああ、そうか、花を摘みに行ってきたのか」
「言わないでよ!」
――ドスン!
見事なボディーブローだった。
「で、どうするの?」
帰り支度を終えた俺のすぐ隣に立ってそう聞いてくる。
「もう一回やったら我慢できなくなるから、帰ろう」
そう言って、一ノ瀬の頭を撫でた。
「えー、いいの?」
「良くない。けど、俺はお前を大事にしたいんだ」
こんなことを続けたら、気持ちが抑えられなくなってしまう。
そして、それはいつかお前を押しつぶすだろう。
「まあ……、いいけど。じゃあ、帰ろうか」
そう言って、ふたりで生徒会室を後にする。
鍵を閉めて、靴を履き替えて昇降口を出ると美しい銀世界が待っていた。
「わー、凄い降っているね」
「綺麗だなー」
しんしんと降り続ける雪はどこまでも世界を白く染め上げていく。
街灯の灯りに照らされた雪はとても美しく感じた。
「私は寒いし、歩きにくいし濡れるから嫌いだけどね」
「お前は雪国の人か」
やっぱり価値観が違うようだ。
傘は1本だけ差すことにした。
肩を並べて歩くにはこの方が都合が良い。
「ねえねえ、さっきさ。私の匂いがするなーって思ってたでしょ?」
「何故それを知っている?」
思いっきり見透かされてしまった。
「うわっ、思ってたんだ! 変態! 気持ち悪っ!」
「お前が言ったんだろ」
まったくもって、酷いヤツだ。
それにしても、よく気が付いたな。
……ん? もしかしてコイツ。
「なあ、一ノ瀬。お前、もしかして。
自分の身体から俺の匂いがするって思ってたのか?」
「なっ! そんなことあるわけないでしょ!」
言って、真っ赤になる一ノ瀬。
お前……、そんな表情をすることもあるんだな。
結局、同じことを考えていたのかもしれない。
価値観は違うけど、なんだか思考回路が似てきた気がする。
一ノ瀬は誤魔化すように、ガシッと俺の右腕を掴んできた。
「えへへー、どう? 嬉しい?」
「嬉しいに決まっているだろ」
そう答えると、一ノ瀬も嬉しそうに笑った。
「それにしても、男の子って凄いねー。あんなにきつく抱きしめられるんだ。
私の力じゃ全然足りなかったなあ」
「ごめん、苦しくなかったか?」
「ん! 大丈夫。むしろちょっと好きかも」
そうだったのか。しかしその発言は問題がある気がする……。
「今度やっくんにやってもらおうかな」
「な!? 誰だそれ!」
俺の知らない間に彼氏でも作ったのか!?
「うわー、その反応引くわー。弟だよ」
「なんだその姉ハラは。いいよ、俺がいつでも抱きしめてやる」
むしろ今すぐ抱きしめたい。
「えー、高木くんは下心が丸出しだからなあ……」
「それは否定しないけどな」
流石に、今は無理だ。一ノ瀬のことで頭がいっぱいになっている。
「うわっ、開き直った。最悪の変態だ!」
「何でも良いよ、俺はお前が大好きだ」
ついさっきまで、あんなにごちゃごちゃ考えていたのにな。
ものすごく、馬鹿になっている気がする。
「なっちゃんにはなんて返事するの……?」
「さっき言った通りに言う」
正直な気持ちを言うしかない。
それ以外の言葉はただの誤魔化しだ。
たとえ、誰かを傷つけてしまうとしても。
俺は、一ノ瀬のことが好きだ。
好きでいたい、ただそう思う。
「辛かったら、言ってね」
どうして、一ノ瀬は俺の考えていることがわかるのだろう。
心配そうに俺を見てくれる一ノ瀬が愛おしい。
愛してくれなくても構わないんだ。
ただ、一ノ瀬のことを好きでいたい。
もう無理にこの気持ちを消そうとするのは止めよう。
頭で考えたことは心には勝てない。それを思い知った。
どんなに頑張っても忘れられないというのなら。
もう開き直るしかないじゃないか。
俺はどうあっても、目の前にいる一人の人間、一ノ瀬 梨香が好きなんだ。




